丹沢の鉱山跡を探る 8  丹沢だより433号 2006/9(探し求めていた丹沢鉱山発見)

丹沢の鉱山跡を探る 8 


   やっと見つけた東沢鉱山跡




抗内から外へレールが敷設

3. 「丹沢だより」の記事から

3-3-3.まだ、あきらめ切れなかった「東沢の鉱山」 丹沢鉱山・信玄発見のかなやま金山か?

 思えば、やまし山師の心境とは何ぞや。トレジャーハンターの心境とは何ぞや。入れ込んで身代を潰すまでにはいたらなかったが、この東沢に何回足を踏み入れたであろうか。そのお陰で東沢周辺の地理にもだいぶ明るくなった。これが最後・最後と言いながら、最後の望みを掛け「小満」のころ、またもや東沢に出かけた。

 勝手知ったる東沢 今回は、枝沢に鉱山あれば知らないで通りすぎる可能性もあると考え、両岸の数ある枝沢をシラミ潰しに遡行した。が発見できず…またもや徒労感に苛まれ、いつもの湧水口で一休み。いったいどこにあったのだろう。

 この周辺に入るときは、中ノ沢休泊所跡の山神様に、かならず道中安全と鉱山発見を祈願して入るのだが、もうそろそろ許されて東沢の鉱山跡を見せてくれても良いものをと嘆願してみても始まらない。初心に帰って『心眼』で、こんどは先に再発見した玄倉鉱山と同じ標高の場所を、東沢で探してみることにした。
 「こっちだよ、こっちだよ、もう少し右、もっと上」と、心に響く声を頼りにだいぶ歩き回り、帰る時間も無くなりかけていたころ、人工的な平坦地を発見。ザレたいやな斜面を登り平坦地に到着。そこには割れた一升瓶があった。その先には、なんとレールがひしゃげている。レールの先には、ぽっかり抗道が口を開けていた。埋もれずに待っていてくれた。 思わず発見した時は、雄叫びを上げてしまった。

曲がりくねった坑道

 なんと『武田信玄の金山』は、東沢源頭部にあった。どうやら色々な伝承を整理すると東沢中間部には、鉱石を選鉱する作業所等が設けられていたようだ。それを登山者が見て鉱山があると勘違いしたようである。実際の鉱山は、登山道から見えない位置にあったため、皆知らずに通り過ぎていたようだ。

 いつも坑道に入る時は、緊張する。もしかしたら何十年間、誰も入坑したことのない坑道。魔物が潜んでいそうな漆黒の空間。妙にうきうきしている自分が恐い。

 本坑道は、ちゃんとしたトンネル型で中央部分にレールがありトロッコが通れるようになっていた。20mくらい進むと天井部分が大規模に崩落してぽっかり大きな空間が開いている部分がある。多分だれも入ってなかった坑道。人が入った振動でバランスが崩れ、またいつ崩落するかもしれない。その先にも坑道があるはずであるが身の危険を感じ探索は中止した。また別に本坑道の脇に人が屈んで進めるくらいの小さな側坑道があり、こちらはいかにも手掘りの感じで、曲折が激しくだいぶ長い。

 恐る恐る進んでいる途中、ヘッデンが急に消え真っ暗闇に!怖くなってあわてて引き返した。しかしまた点灯。気を取り直して再度侵入したがまた消灯。近づくなとの信玄公のサインか?この坑道は、口径が狭く岩を刳り貫いて掘られているので落盤の跡もない。しかし、こんな場所で地震や落盤事故で埋まったら絶対に分からないだろう。坑道には、ところどころ銅鉱石の破片が落ちている。幾多の地震をくぐり抜け潰されずに残っていたのであろうか?不思議な感じがする。

 坑道は段々小さくなり、最後は、這って進まなくてはならなくなった。気分的には、もう進みたくないのだが、奥に何があるか確かめなくてはいけないと言う、探究心が打ち勝った。最後は行き止まりのきりは切羽では無く、なんと!先ほどの崩落していた大空間の対面にぽっかり出た。

 この大空間 高さが6mくらいある大きな空間でヘッデンの光も全体に届かない。そして天井部からの崩落が坑道内部にうず高く積みあがっており、上部に向かって掘り進んでいるようでもあるが、支えの坑木の類は見当たらない。鉱脈の断層に沿って崩落しているようにも見える。鉱脈は大きな一枚の岩盤で青緑色の銅鉱石が一部あった。積み重なりは不安定で少しの振動でガラガラと崩れてくる。たぶんだれも触ってないのだろう。危険極まりない。この部分が石英閃緑岩と丹沢亜層の接触部の鉱床なのであろう。                       


本坑道と側坑道分岐

 側坑道は長さ40mくらいで鉱脈を追ってか、紆余曲折して続いており大回りして先の大空間に繋がっている。それに比較してレールのある本坑道は、最短距離で大空間に繋がっており、近年の採鉱技術で掘られたことが伺い知れる。側坑道は武田信玄時代に掘られたのであろうか?いったい何人の坑夫がどんな思いを込めて岩盤を切り抜き、運び出したのだろう。
 日本鉱山史の研究によると、この武田信玄時代の坑道(間歩・まぶ)の掘り方は「靑盤切り様」と言って高さ4尺、横2尺の長方形の坑道を掘り進むとのこと。途中ちょうどこれに一致する坑道が続いている場所があった。明治以前の坑道は、ひと1人の大きさの幅で屈んで歩けるぐらいの高さが特徴であるので、明治以前の坑道(間歩)である可能性は高い。

青盤切りの坑道形状



 さてトロッコの行く先はどこだったのであろうか?山腹をトラバースしてどこかの選鉱場でも繋がっていたのであろうか?山腹は山抜けが起こっておりトレースするのはあきらめた。鉱石を運搬するのに人力では運び出せる量も知れている。どこかに向けた索道があったのであろうか?…探索の夢は尽きない。 

手彫り採掘跡



崩落したトロッコ道の先


坑道先崩落部天井部分

 帰る時間も差し迫っていたので飛ぶように戻った。家に帰ってヘッデンの取説を読むと、どうやらこの最新式ヘッデン、電池が無くなりそうになると自動的に一瞬消灯して警告してくれるようだ。人騒がせなヘッデンである。

 東沢周辺がガイドブックによって紹介されだしたのが昭和初期そのころの東沢出合、欅平にはワサビ田があったり炭焼き小屋があったりと、だいぶ人の気配がする場所であった。またしっかりとした仕事道ができていたことも伺える。中ノ沢休泊所から欅平までは、丹沢だより275号の奥野氏の記事によると「信玄の隠し道」との伝承があるとのこと。

 古いガイドブック上でこの「信玄の隠し道」を探してみると東京附近山の旅 朋文堂S18年改稿版に記載があった。引用すると、軈て右岸から林道が河原へ降って来るのを眺める。この径は、『信玄ノ隠シ道』と称され武田信玄が軍事用の目的で拓いた間道であるとも傳へられてゐる。引用終わり なんとワクワクするような記事ではないか この場所は、現在の新山沢近辺を示している。さてこの中ノ沢経路を辿っていると、どこか似たような場所を辿ったことがあると、ふと思うことがある。それは、水無川の鉱山道だった。どことなく感じが似ている。仕事道は、なるべく労力を使わず楽に歩けるように道を切っているようだ。玄倉・山神峠・ユーシンへの経路もそう言えば似ている。

 戦後の登山ガイドブックや観光案内に書かれている東沢に信玄の金山があるという伝承は、足柄之文化2号の記事から始まったものと見てよいだろう。さらに辿れば丹沢鉱山(三川氏)は武田信玄時代に発見との日本鉱産誌の記事だろう。

 おもしろいことに、この東沢上流部分は、行政の地図(森林基本図五千分の一)によると金山沢との記載がある。徳川御留林、帝国御料林の時代から引き継がれている地図の東沢上流部は、行政側では金山沢と呼ばれていた。本当に、金が取れたのであろうか?また小川谷上流の中ノ沢乗越に繋がる沢は金沢と呼ばれており、この周辺何らかのは鉱床地帯である可能性が大きい。

「丹沢鉱山」 玄倉から徒歩3時間 東沢 場所:源頭部 大石山へのバリハイルート途中

 三川氏の鉱区一覧への初出は、昭和24年(1953)試掘登録番号268で初めて現れる。登録者 三川東九郎氏 鉱種 金、銀、銅、硫化鉄。であった。日本鉱産誌によると鉱脈は、丹沢層群を貫く石英閃緑岩中にある。その後昭和30年(1955)試掘登録番号368で面積を増やし、ついには昭和34年(1959)採掘登録番号21で本格的な採掘に移行した。三川氏の住所も東京都から厚木市に移り採掘に本腰を入れていたようだ。

 金を目当てに掘ったようだが、実際に採掘されていたのは、孔雀石、黄銅鉱、輝銅鉱などで銅の含有量12%と高品位であった。しかし、あの場所から掘り出して運ぶことを考えるとても採算が取れるものではなかったと思う。昭和45年(1970)の鉱区一覧にも記載があるので権利は継続していた。自然と文化No.7によると登録者は、その後日本鉱業となって三川氏から代わっている。

 日本鉱産誌によると「武田信玄時代(1540~1550)に発見された」とのこと。よく引用される新編相模国風土記稿 三廻部の金山(1558)の話よりも古い。時代背景は、武田信玄時代であることは確かだ。しかし、この場所は北条氏支配下にあったと考えられるので武田信玄が直接関係していたわけではないと思う。

 足柄之文化13号の池谷氏も同様な意見であった。はたして日本鉱産誌の出典は何であったのだろう?是非とも出典を知りたいものだ。さて前々号の書き出しに「しかし例外が1つだけ発見できた。」と含みを残した書き方をしたのは、昭和11年発行の東京附近山の旅 続編p136東沢の項に「信玄砂金の跡と称するものがある。一寸として滝を降りると右手からヒデノ沢が」との記載があったからだ。

 ヒデノ沢出合から上流は、地質が変わりちょうど溝をほったような流水路に沢は変わる。この形状が砂金を取る「ねこ流し」の形に似ていたため砂金の採取跡と勘違いされたのではないかと考えている。信玄時代の砂金採掘の跡が昭和初期に残っているはずも無い。今でも溝をほったような流水路の形状は見ることができる。

 昭和初期、信玄時代からの坑道はあったが、まだ再発見されていなかったのであろう。その後、三川氏がなんらかの確証をもって鉱山跡を探し出し、武田信玄時代に掘られた坑道を一部利用して最短距離で鉱床に届くトロッコが通れる坑道を開いたのであるまいか?

 三川氏は、ほかに東丹沢の桶小屋沢周辺にも鉱区を登録しており、これは丹沢だより102号でH・シュトルテ氏が述べている鉱区だ。(桶小屋沢の上流部分は、金山沢と呼ばれている。また、枝沢にはマブ沢という沢もあり、その場所に坑道もある。)こちらも武田信玄が掘ったと言う伝承があるそうだ。

「森林基本図」

 空中写真の図化により神奈川県が作成した地形図。森林計画図のベースマップ。縮尺は5千分の1で図版の大きさはA0版。丹沢山塊は神奈川県分と国有林分を合わせて約92枚の地図から構成されている。中心部の山北町の森林基本図は御料林時代から引き継がれた

 地名が残っている。同角はどう洞角、中ノ沢は仲の沢、桧洞は、下流部分は、桧洞沢、上流部分は、桶棚沢となっていて興味深い。桧洞丸は地元では、ひのきどうまるとよばれていたこともあるそうだ。東丹沢には、桶小屋沢がありその上流は金山沢と呼ばれている。桧洞も桶が付く名前があることからかなやま(金山)がそばにあるのだろうか?鉱山に、桶は欠かせない。

 場所のヒントは、図書館にいって加藤栄治ら,1959:足柄之文化2号 40-42 信玄の丹沢金山をたずねて、奥野幸道,2004:丹沢だより409号 武田信玄の金山をよく読めば判る。

昔も今も、湧水口の場所は変わらない。

お願い

 この一連の連載記事に書かれている場所は、登山地図では赤破線で示されている難路や地図に記載のない経路を辿って行きます。この記事を参考にして行動した結果、想定できるリスク・想定できなかったリスクにより、あなたの生命に危険を及ぼす事象が発生する可能性があります。事故に遭われても、一切責任を負えませんので個々の方々の技量、判断、責任で安全な山歩きをお願いします。

次回4.「玄倉の幻の銅山跡」(白井平に鉱山があった) えっ あんな所に!

参考文献(3-3-1~3-3-3)順不同


 池谷嘉徳,1989:足柄之文化18号 68-83 玄倉史話,山北町地方史研究会


 池谷嘉徳,1981:足柄之文化13号 92 西丹沢の金鉱,山北町地方史研究会


 加藤栄治ら,1959:足柄之文化2号 40-42 信玄の丹沢金山をたずねて,山北町地方史研究会


 東京鉱山監督局管内 鉱区一覧(明治44~大正15年、昭和2~16、24、28、32、36、39、42、45年)


森慎一ら,1984:自然と文化No.7 1-18 神奈川県内産の鉱物,平塚市立博物館  


工業技術院地質調査所編,1956:日本鉱産誌1b-c,工業技術院地質調査所


国立公園協会編,1964:丹沢/大山総合調査報告書付図Ⅸ、第六部 調書及び図面,神奈川県


今井秀喜ら編,1973:日本地方鉱床誌 関東地方,朝倉書店


奥野幸道,2004:丹沢だより409号 武田信玄の金山,丹沢自然保護協会


奥野幸道,1992:丹沢だより275号 小川谷廊下は風前のともしびか,丹沢自然保護協会


神奈川県西部治山事務所,1997、1998、1999:仲の沢流域治山基本調査報告書,神奈川県


神奈川県,1967:山北町森林基本図5千分の一地図 19-5,19-6,神奈川県


神奈川県採掘登録番号25:閉鎖鉱業原簿謄本,経済産業省関東経済産業局


科学技術庁原子力委員会,1960:月報第5巻第5号 わが国におけるウラン探鉱の現状,科学技術庁


小葉田敦,1969:日本鉱山史の研究,岩波書店


ガイドブック類


川崎吉蔵編,1952:丹沢の山と渓,山と渓谷社


 山と渓谷社編,1956:丹沢山塊 登山地図帳,山と渓谷社


川崎吉蔵編,1958:丹沢の山と谷 登山地図帳,山と渓谷社


諏訪多栄蔵・山口耀久・山崎泰治他編,1967:富士丹沢三ツ峠8 改定3版,創元社


羽賀正太郎,1970:アルパインガイド23,第7版,山と渓谷社


東京雲稜会編,1970:丹沢の山と谷 ,山と渓谷社


新島章男編,1936:東京附近山の旅 続編,朋文堂


朋文堂編,1943:東京附近山の旅 改稿版,朋文堂

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