丹沢の鉱山跡を探る  16  丹沢だより441号 2007/5(鎌田鉱山)

丹沢の鉱山跡を探る 16             


8.鎌田鉱山(はたして金はあったのか?) 



           コンクリートブロックで塞がれた鎌田鉱山抗口全貌

                             

ふさがれている鎌田鉱山上部の隙間から覗く



   わずかな隙間からカメラを差し入れた焼けの兆候の岩石が転がる


          明治24年発行二万分の一山伏峠の山神様付近


昭和4年御正体山に出てくる山神様記号



奥野CDより鉱山部分の抜粋

「鎌田鉱山」浅瀬入口から徒歩2時間30分 場所:水ノ木下流・山神沢出合

 場所は、山神沢出合付近にあると言われている。山神沢は、山神峠から悪沢に方面に流れる沢が地図上に明記されている。しかし、この山神沢は山神峠から水ノ木下流の世附川方面に流れ込む沢である。この山神沢上流へ辿ると、山神様に出逢える。昭和7年発行二万五千分の一地図御正体山には神社記号が示されているので、昔は有名な存在だったのであろう。また明治24年発行の二万分の一地図山伏峠には、悪沢からこの峠を通り、水ノ木までの経路が示されている。(しかし神社記号は無い)昭和10年発行の山と渓谷33号特集富士山と繞る低山 水ノ木澤から菰釣シ山 加藤秀雄によると以下引用 亦古く甲相の聯路であったとも傳へ現在の廣河原から水ノ木へ至る道はそう古いものではなく、その以前は峰坂峠(柳島峠)と世附峠の中間、アシ澤峠を降りワラ澤を溯り山神に出て西腹を捲いて行った。今僅かに俤を止めるのみで全くの廢道となつてゐるがこれを横引横道と云った。折り口は丸高の下手邊で道が蛇行してついてゐるから織戸、或は折戸と當てらる地名がの殘つて居る譯である。 引用終わり 次回の金山澤鉱山が採掘されていた時期は、明治から大正にかけてなのでこの経路を使って物資が運ばれていたのだろうか?

 横浜山岳会編「丹沢」には以下引用 浅瀬から暫く行くと軌道は一度右岸に移って、対岸に悪沢部落や植林の苗畠などを見ながら行き、再び左岸に渡りかえして広河原に着く。営林署の小屋のあるところで軌道はジグザクに高見へ上がって行く。左下に土沢の合流するのを見る。軌道は本流について登って行く。はるか左下に淙々たる流れを見ながら山腹を搦む軌道を辿る。やがて右側に鎌田鉱山の家が二、三軒ある。右から左へ屈曲して行くと…引用終わり この屈曲した場所が山神沢出合である。また佐藤氏の「丹沢・桂秋山域の山の神々」第三部(四)「山神沢の山神」世附川-まぼろしの山神‐(ここには山神峠の山神様を佐藤氏が探された一部始終が伝承とともに書かれている)以下引用 水ノ木沢の東電の取水口上流に流下する小沢を林道が横切っている所に来て、小休息した時に、林道によって削り取られた岩壁にあるコンクリートでふさいだ穴(坑口)を見つけることができた。柳島と湯船の二人の古老の語った「金鉱の坑」であった。引用終わり まさしくここが鎌田鉱山跡なのである。
 この世附地域 地震観測用の施設や水力発電水路排砂口の横坑もある。また地蔵平付近にダムを設け総出力90万KWの地下揚水発電所の計画が三保ダムを作る際に持ち上がり、東電が詳細な地質調査を行なった。そのための横坑や縦抗の跡も各所にあり、それを鉱山跡と間違える人もいるようだ。もしこの揚水発電所計画が実行に移されたら地蔵平は、水面下になっていたであろう。

 奥野氏の丹沢資料コレクション・尾根及び広域概念図・落合世附山中湖(1)には奥野氏手書きの地図上に鉱山跡の印が2箇所載っている。また奥野氏からの私信によると鎌田鉱山は林道に沿って3箇所の坑口があったが、安全のためブロックで塞がれているそうである。

 通産省発行の鉱山精錬所名簿 昭和27年版 銅鉱の項には鎌田鉱山が出ている。そして鉱山主は鎌田氏で従業員8名との記載がある。また日本鉱産誌では、唯一金銀鉱床の項目にでてくる丹沢の鉱山であり、同時に銅鉱の項目にも出ている。金と銅 両方が産出されたのであろう。位置:三保村、水ノ木、大棚部落南方1km山神沢出合、交通:山北駅下車北方15km、地質および鉱床:第三紀砂岩・頁岩・凝灰岩中の鉱脈数条、鉱石:自然金、黄鉄鉱、石英、品位:金50g/t、銀30g/t、銅3%、金含有率50g/tとはすごい含有率である。秩父にあった秩父鉱山でさえ5g/t。これは普通級。現在日本で一番金含有率が高い菱刈鉱山でさえ46g/t。いかにこの鉱山の含有率が高かったかが伺える。昭和26年の朝日新聞 神奈川版には、「丹沢金鉱に有望な見通し」県埋蔵量などの調査にのり出す。との記事がある。以下引用 足柄上郡三保村水ノ木部落にある西丹沢山系に鉱業権を得て試掘中の某金山について県経済部では地元民の要望に応えて工業技術院地質調査所に分析調査を依頼していたが11日判明した調査結果によると鉱業化も有望という見通しがついた。 引用終わり。同時期の雑誌「神奈川地学」には、鉱石は日立鉱山に送って精錬しており、本県唯一の金産地である。との記述も見られる。しかしその後、産出は継続的にみられなかったようだ。鉱脈が掘り尽くされてしまったのか、部分的に高濃度の鉱脈があったのか定かではない。
 日立鉱山と言えば日本鉱業である。この時代、このような弱小の鉱山は鉱石を日立鉱山に送って精錬していたそうだ。鎌田氏の鉱区の初出の試掘は昭和21年ころから始まっており、その後24年27年と続け、昭和28年採掘登録番号14番で本格的な採掘となり、鉱種は、金・銀・銅・鉄・硫化鉄・ニッケル・コバルトであった。昭和37年には登録者が日本鉱業となり昭和45年までは日本鉱業で登録されている。

(前号より)山神峠から山神沢に沿って下り林道に出た。周辺は焼けの兆候があり鉱脈が有ることを伺わせている。この場所は、以前協会の水質調査の際にわざわざ車を止めて散策した場所である。その時は鉱山跡は見つからなかったが、しかし金山草と言われている「ムラサキシキブ」(ヤブムラサキ?)が青紫色の小さな実をつけていたので参加者に説明した覚えがある。さて下流に向かって左岸を詳しく見ていくと断層が強く褐色着色している部分に、それらしきブロックが露出していた。周辺の岩盤ともあまり差が無いので注意しなければ見逃していただろう。下部は土砂で埋まり上部は落ち葉に隠れている。落ち葉を払うと坑道を塞いだブロックが露出した。廃鉱にした場合は、危険が無いよう、また公害が発生しないように坑道を処置しなければならない。
 鎌田鉱山は、その点しっかりと、ブロックで塞がれ立ち入れないようになっている。最終登録者が日本鉱業だったことと、林道の直ぐ脇なので安全管理はされている。唯一ブロックにスキマが開いており、そこからデジカメを差し込むことができ、内部の画像を得ることができた。林道には褐色の岩石が転がっているが、黄鉄鉱や黄銅鉱は見つからなかった。坑道から掘り出したズリは世附川側に落とされてしまったのだろうか?ここならば軌道を使えば鉱石の運搬は簡単である。残り2箇所の坑口が付近にあるはずであるが、土砂に埋まってたのか確認はできなかった。

つづく

次回9 いよいよ終わり 金山澤鉱山(初めての採掘登録) ここだよ!と呼ぶ声が聞こえる。

参考文献(8)順不同

工業技術院地質調査所編,1954:日本鉱産誌1a,1b工業技術院地質調査所


森慎一ら,1984:自然と文化No.7 1-18, 神奈川県内産の鉱物,平塚市立博物館  


加藤昭ら,1996:神奈川自然史誌資料17 95-107, 神奈川県産鉱物目録,神奈川県立生命の星・地球博物館


東京鉱山監督局管内 鉱区一覧(明治44~大正15年、昭和2~16、24、28、32、36、39、42、45年)


神奈川県,1948:資源調査報告書34-50,神奈川県


朝日新聞記事,1956:朝日新聞神奈川版昭和26年9月12日丹沢金鉱に有望な見通し,朝日新聞


神奈川地学,1956:神奈川地学,丹沢の金鉱,9月第4号,神奈川地学会


横浜山岳会編,1955:丹沢マウンテンガイドブック シリーズ15,朋文堂


佐藤芝明,1987:丹沢・桂秋山域の山の神々,丸の内出版


神奈川県企業庁管理局三保事務所,1981:三保ダム建設工事誌, 神奈川県企業庁管理局三保事務所


丹沢自然保護協会編集委員会,2006:奥野幸道丹沢資料コレクションCD,丹沢自然保護協会


加藤秀雄,1935:山と渓谷33号,147-152,水ノ木澤から菰釣シ山,山と渓谷社


大日本帝国陸地測量部,1932:御正体山2万5千分の一地図,大日本帝国陸地測量部


大日本帝国陸地測量部,1891:山伏峠2万分の一地図,大日本帝国陸地測量部











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