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丹沢の鉱山跡を探る 大棚沢の金坑(穴)は……

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大棚沢の金坑 ( 穴 ) は…… ふるさと宮ケ瀬を語継ぐ会編者 夢工房が制作発行している郷土資料「ふるさと宮ヶ瀬」には大棚沢に鉱物資源を採掘した金穴があるとのこと。神奈川県立図書館郷土資料室でさらに資料を調査すると、宮ヶ瀬ダム工事に伴う水没文化財の調査報告を見つけた。その資料の名前は、かながわ考古学財団調査報告  51  宮ヶ瀬遺跡群 XV Ⅲである。ここまでは 2006 年当時に調査を実施していた。その後は、西丹沢の鉱山跡の探索に取り掛かって 3 年。東沢の鉱山跡を探すのに時間が掛かってしまったが順調に数を稼いだ。次は東丹沢の鉱山跡の残りの課題をやろうと考えていたが力尽きてしまった。それから 5 年も経過してしまった。今年から「丹沢を探る」を再開しようと思い、足慣らしに散らばっていた玄倉発電所の資料をまとめた。鉱山跡も昔集めた資料を読み直し、記憶の断片を繋げていった。まずはそれぞれの資料を引用してみよう。 「ふるさと宮ヶ瀬」ふるさと宮ケ瀬を語継ぐ会編者制作発行 夢工房  カラーページ見開きに大棚沢の滝と金穴の写真 「ふるさと宮ヶ瀬」ふるさと宮ケ瀬を語継ぐ会から引用  本文中には鉱山に関する記載は無い。 「かながわ考古学財団調査報告 51 宮ヶ瀬遺跡群 XV Ⅲ 付編Ⅰ大棚沢 金坑跡の確認調査」  発行 かながわ考古学財団 以下引用要約 宮ヶ瀬ダム建設における湛水地区の埋蔵文化財については、すべて調査することになっており、地元住人の落合氏からの要請により調査が開始されたそうである。しかしながら大棚沢の金坑跡らしきものについて、それが金坑跡であると言う村の記録や伝承は一切無い状況であった。落合氏は、坑口の写真を山梨文化財団研究所(帝京大学)に送り鑑定を依頼した。その結果 金山の坑道に似ている。戦国期もしくは近世のもので間掘り(試掘)であった可能性があるとのこと。その鑑定結果を根拠に清川村にこの金穴を文化財として取扱うことを申し入れ、金坑跡であるかの確認調査に着手した。 場所(右岸だか左岸だかわからないところにマーク) 金坑跡は、大棚沢にあり北側に張り出した小尾根の先端部分から南東約 5 mの北東斜面に開口しており、岩崩れによってできた岩の裂け目を坑口として利用している。坑口は雨水で運ばれた土

丹沢の水力発電所を探る 7 玄倉第二発電所 改良工事・靑崩隧道見取り図

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丹沢の水力発電所を探る 3玄倉第二発電所も参照してください さてさて、 1 月に工事中の玄倉第二発電所を探索してきたが、工事は年度末の 3 月で終了 とのこと。工事終了後の現場確認をすることにした。日時は、尊仏祭が行われる 5 月 11 日 大倉から登り、塔ノ岳で尊仏祭に参加、尊仏岩跡を参拝して玄倉に降りる長丁場(林道歩き)である。 1 月に見た立てた推測が合っているかの確認も兼ねる。尊仏祭は別項で、改めて原稿を書き起こすことにして、まずは、塔の岳山頂を後にして尊仏の土平に向けて下山開始。祭礼が終わるのが遅く 13 時過ぎになってしまった。途中玄倉第二発電所の完成を拝んで 17 時 30 分の玄倉発のバスに乗るためには急がねばならない。 不動の水場の下から大金沢と小金沢を隔てる尾根(昔の登路)を下降。この尾根の下降は踏路が、ふかふかして歩きやすいが最後の河原歩きが苦痛になる。途中の石の標識を見て 順調に下降した。 右 ユーシン 左 塔ノ岳 (裏には同好会の文字)   新編相模風土記稿には、その昔金沢といわれるこの周辺に金山があり、数百人の人々が活動していたとのことであるが、今はその面影も無い。大金沢、小金沢を遡行した人の Web 記録を読んでも鉱山があったような記述も無い。焼けの兆候があれば、その周辺を探せば良いのだが、大金沢、小金沢の出合いには見渡らず、さらに下ると箒杉沢との合流点の箒沢左岸に焼けの兆候があったが、時間が無いので、パス。大きな川原を左右に探しながら、尊仏の土平から林道に入った。途中 以前見つけたオガラ沢の出合いの焼けの兆候を確認。まもなく熊木ダムに到着。湛水された湖面を観察。   熊木ダム 湛水状態 1 号導水路からは水が流れており、水路が補修されたことを確認。 1 号導水路は、まだまだ現役であった。 1号導水路より導水中   途中鉄砲沢導水路の取水口を確認したかったが、時間が無い。パスして玄倉第二発電所に向かう。発電所の設備は完成されており、発電所の橋を渡り始めたら、ちょうど発電機の始動にぶっかったようでモーター音が響いてきた。(15時くらい)発電所内には立ち入ることができないので金網越しに内部を観察。 予想  GIS 化された変電設備 ⇒予想通りの構成  C-