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丹沢のタギリを探る(再開拓期)

  西丹沢の小川谷左岸に「タギリ」と呼ばれるV字キレットある。今では丹沢一のバリエーションルートとして一般化されてしているが、その昔 吉田喜久治氏が通過して本で紹介されていた。現在でも古本で購入できる本の名前は「丹澤記」回想六十年沢登り賛、山名考(1983年発行)である。丹沢フリークならば、是非とも手に入れて読んで頂きたい。 大タギリが出てくる章は、pp.27 ドーカク沢、「ドーカク尾根」の部分   この部分に現在 敷地山下の作業道入口に掲げられている「ドーカク尾根」説明文の内容が書かれている。以下引用 ドーカク尾根とは東沢打越(乗越)、モチコシノ沢ノ頭、丈量小屋沢ノ頭(女郎小屋沢ノ頭)、大タギレ、小タギレ、芋ノ沢頭とのび小川のドウに至る尾根の、吉私(吉田喜久治)だけの便宜称である。引用終わり(原文そのまま)  ここで出てくる小川は、小川谷のことを差す。小川も合流点あたりの別称で中ノ沢が正称ではないかと言っている。仲ノ沢林道は、実は中ノ沢林道の読み違いの可能性がある。玄倉川本流が大川に対する小川。中ノ沢とは玄倉川と中川の中間を言う。ともある。pp.234 大タギリが出てくる章は、pp.83 小タギリ、大タギリ   ドーカク尾根を通して山行 1948年11月これが初踏破らしい(吉田喜久治翁曰く)  次に見つけたのは、鈴木澄雄著「心が豊かになる山歩き術」(1997年発行)のんぼー山歩きのすすめ  pp.103 「登れなかった尾根」 吉田喜久治の「丹澤記」を引用 丹沢の尾根では随一の難コースとある。 最初は同角の頭から東沢乗越までで時間切れ、次は敷地山出合から芋の沢頭を通り大タギリに到達。下まで降りたが、対岸を登り返すことができなく、元来た道を戻っている。 その後 丹沢自然保護協会員が鈴木澄雄氏をリーダーにして通過している。もちろんロープ使用 全員が通過して玄倉林道に着いたころは夕方になっていたそうである。(丹沢自然保護協会誌に掲載あり)  Webで最初に紹介したのは、マシラのページのマシラさんだった。その当時は、残置ロープもなく、まっさらな状態 状況は以下のURLを参照 大杉沢から丹沢一番の難路へ  2003/10/31( 今から19年前) それ以前に通過した山岳会、個人もあるかもしれないが会報を調べることはしていない。 2003年当時のことである。そのころはヤマレコや

丹沢の蛭を探る 吸血実験 その二 蛭の子供が生まれた。

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  丹沢 寄で地図の読図研修会に参加。 1日目は平穏に終了。2日目は、朝から大雨 11時ごろ雨が上がったので、読図講習会開始 最初は道なき道を二万五千図で移動。沢筋から獣道に入り尾根に上がるコース取り。  ところが入った獣道にはヒル柱が立つ位 うじゃうじゃ蛭がいる。私は、ズボンの下にタイツ。スパッツを装着。靴とスパッツ間にヤマヒルファイター散布、ついでに靴とスパッツにも散布。対策してないほかの人は、悲鳴を上げながら蛭退治。  スピードを上げて緊急退避で藪漕ぎで尾根に直上して、全員で蛭確認。林道に出たところで再度確認。血だらけの人多数のため講習会は中止して出発地点に戻り、スパッツを取ったら蛭がうじゃうじゃ、サンプル管に採取した。私は吸血の被害はその時は無し。その後 座学で読図講習会再開。  講習会が終わって着替えていたら、首筋に何やら違和感。丸々血を吸った蛭3匹がぽとりと畳に落ちる。首筋3ケ所をやられていた。きっと藪漕ぎの際に上から蛭が落ちてきて首筋に吸着した様子。 回収した蛭 底の大きいのと壁に張り付いている2匹が吸血蛭 残りはスパッツについていたもの このまま、瓶で保管していたら、一番大きい蛭ともう1匹元気な蛭以外死滅  蛭飼育箱を作って2匹を飼育していたら、大きい方が卵を産んだようで蛭が生まれた。 本体は死滅(溶解)している。 赤丸内が蛭の親 溶解している 周りの壁についているのが血を分けた兄弟 長さ3㎜位 拡大 さらに拡大 口と肛門がある もう一匹の蛭 成長するとこの形