丹沢と私(哀悼 奥野幸道さま)

始まり

  私が山を登り始めたのは、たしか小学生の時だったと思う。最初は高尾山、次は高尾山から城山を経て相模湖だったと…思う。都内に住んでいたので、小さいときは、公害?で喘息で虚弱児童だった。そのため千葉にある養護学校(健康増進施設)に寄宿して数年間を過ごした。親は、たぶん体力をつけるため山に、つれて行ったんだろう。その頃の登山地図は日地と昭文社だった。紙の登山地図なので山行を重ねると折り目の部分が破れてしまったりしたものだった。親は山が趣味ではなく、子供に体力をつけるためハイキング程度の山行をしてくれたのだった。動機付けはしてくれたおかげでは、独学で単独行を始めた。

丹沢と私
  どうゆう訳か、秩父、奥多摩、奥武蔵には嵌らず、丹沢に通いだした。その頃の丹沢のガイドブックは、ブルーガイドとアルパインガイド(現在はアルペンガイド)があり、それぞれ奥野幸道と羽賀正太郎であった。登り始めたころは、二ノ塔に月見山荘があり、塔ノ岳には日ノ出山荘が健在であった。手元にあるぼろぼろになったアルパインガイド23は1967年初版。今から44年前が発行と言うことは、11才の時から登っていたことになる。たぶんこのころは大山あたりから始めたのだろう。中学生になってから単独行が始まり休日前の小田急丹沢号22:45、23:15の2本の電車が出ていた。それに乗って夜行登山をしたような覚えがある。二ノ塔の月見山荘に泊まったときは、隣の部屋で夜通し大学生が麻雀をしていた記憶があり、朝食は、ご飯とさんまかば焼きの缶詰と薄い味噌汁であった。たしか葛葉川山荘と経営者が同じであった。渋沢は今のように開けていなく南口だけであり、バスの回転が大変だった覚えがあり、店先でわらじを売っていた。T字路になった先は商店街が続いていた。駅のT字路の角に、いろは食堂があった。丹沢湖も宮ケ瀬湖も出来ていなかった。中学生2年の初キャンプは小川谷出合で行い、途中雨に降られ養漁場の廃屋に逃げ込んで過ごした。たしか新松田駅には角に大きな本屋があった。なぜ初キャンプがメジャーな水無ではなくマイナーな玄倉の小川谷出合であったかは判らない。そのころ、小川谷山荘は営業していなく廃屋であった。 親と夏休みに日帰りで中川温泉に行ったときは、ボンネットバスで、細い道を落合橋まで下り、登り返して中川温泉に行った。
 高校生になり、お決まりの尾根コースを踏破すると、沢登りが始まる。初めは葛葉川本谷、モミソ沢、新茅沢、源次郎沢を順番にやり、水無川本谷をやり始め1970年発行東京雲稜山岳会の「沢の山と谷」がガイドブックとなった。西丹に入り桧洞、同角、サンザボラ、モチコシ沢(大滝は巻いた)をやった。いまもよく通っている欅平は、そのころ胸まである笹原であった。現在は植生保護柵に囲まれているので時間が経てば元に戻るであろう。東沢にもはいったが、鉱山跡には気が付かなかった。大学生になりしばらく山から遠ざかっていた。就職して研究所が伊勢原工業団地に移転したので、これ幸いと居所を渋沢の曲松の先に平屋アパートを借り、オートバイの免許をとりヤマハXT125のバイクを買い、丹沢に入りびたりの生活を2年ほど送った。その頃は、ゲートが無く玄倉林道もユーシンの先熊木沢出合までバイクで入れた。あまりにも天気いい時は、通勤途中で突然病気になり会社を休んで、丹沢で遊んだものだった。毎日の食事は、朝は箱根そば。夕食は、角のいろは食堂であった。ガイドブックは、丹沢の山と谷(こちらもぼろぼろになり、新しく古本を買いなおした)ブルーガイドとアルパインガイド(現在はアルペンガイド)著者が同じ羽賀正太郎でも、アルパインガイド23と37とでは、わずかであるが内容は違っている。新しいガイドブックは、安全なコースが選択されていて面白みがかけていた。研究所の同僚が大秦野駅(秦野駅)裏に住んでいたので良く行き来をして遊んだ。その同僚は、東京に転勤になり転勤先の仕事が合わず、辞めて剣山荘とみくりが池温泉でバイト生活を送っていた。そののち私も、彼の空ポストに転勤になり、八ヶ岳、北アルプス(黒部・剣、涸沢)を一通りやった。元同僚が剣周辺でバイトをしていたので自然とそちらに足が向いていた。岩には嵌らなかった。そのころ丹沢とは、無沙汰してしまった。しかし丹沢に関する書籍がでると必ず購入はしていた。わたしもそのポストが、やはり合わず転職をした。結婚していたので、彼のように山でバイトとはいかなかった。

回帰
 秦野でいっしょに遊んだ友人に食道がんが見つかり、あっと言う間に亡くなってしまった。彼の妻もわたしの妻の友人であり引き合わせたのは、私たちであった。亡くなる最後の2週間は、共通の友人であった医学部大学教授の配慮で、別の間付の病室で看病し、病院から研究所へ通い、研究所から病院に戻る生活であった。最後を看取ることができ本望であったが辛かった。彼は、彼の妻を下ノ廊下に連れて行く約束をしていたようで、彼の妻の要望もあり、その秋、下ノ廊下から阿曽原、仙人経由剣山荘、みくりが池温泉散骨山行を行った。それらのコースは彼が好きだったコースでもあった。夕方ロッジくろよんに泊まり、早朝 日も出てないころ出発、無事阿曽原峠に到着。さて阿曽原に下りようかと思ったら凄く混んでいるとの情報。時間的にも精神的にも体力的にも少し無理であったが、彼が亡くなったという異常興奮状態であったためか、仙人湯温泉まで強硬突破を図った。今は雲切新道ができ、だいぶ歩きやすくなったが、その時は雪渓の横断や、谷の通過でえらく時間がかかった。ヘロヘロで小屋に19時30分ころ辿り着いたが、ダムから来たことを告げると、許してもらえた。その後もその時は、続々とお客さんが到着し、とうとう小屋に入りきれなくなり、小屋の非常用テントを張る始末であった。翌朝晴れるはずであったが雨が降り、しかし仙人池に着くころにはあがり、ガスも切れてきたので八ッ峰が見えた瞬間に一部散骨。二股を経由して剣山荘に向かおうとしたが、真砂沢ロッジ付近から雨が降り出しガスも出てきており、初心者の彼女を連れて行くのは雪渓登りもあり不可能と判断。と言うことで真砂沢ロッジ停滞を決めた。翌朝も天気がさらに悪化(聞いたところでは雪が剣山荘では降っていたとのこと)剣山荘、みくりが池温泉をあきらめ、ハシゴ谷乗越からダムを目指した。途中からまた雨が降りだしハシゴ谷乗越で散骨。(晴れていれば剣全面が見渡せる)ダムを目指したがさすがに初心者の彼女がバテだした。最後のダムに向かう登りが大変であったが、なんとかダムに辿り着き着替えて、登山者トンネルから外を見上げ最後のお別れ。二十数年来の友人が亡くなり、こころにぽっかりと穴が開いたという感じが抜け落ちた。「そうだ丹沢に戻ろう」と決めた。青春時代を過ごした丹沢に

邂逅
  今までは、単独行が主であった登り尽くした感のある丹沢でも、訪れる度に新しいことを知り得ることで、新鮮で魅力的な山であり続けられることを、他の人にも知ら示めたい欲求が高まり、まずは丹沢自然保護協会に加入した。そこの機関紙「丹沢だより」を利用して情報を発信していくことに決め、奥野幸道さん(以下奥野さん)が会員であることは知っていたので、機関紙「丹沢だより」の創刊号から加入時までの丹沢登山にに関する記事もコピー。もちろんハンスシュトルテさん、奥野さん等の記事を全部コピー(県立図書館の4F郷土資料にお世話になりました。)奥野さんの書いていない事を記事にしようと欲張りなことを考え。と言うか、大先輩と同じ記事では失礼にあたると考え手始めは、旧版地図の入手の仕方を投稿。そして玄倉が好きだったので玄倉周辺の情報を集め、玄倉の前尊仏を投稿。その縁で奥野さんから郵便で、水圧鉄管が通る前の爆破されていない大きさの前尊仏が見える玄倉の写真を頂き「昭和32年5月20日写です。大岩が見えますね」僕は知らなかった。との返事を頂き文通とか電話で話す機会が増えた。
玄倉の前尊仏岩 撮影奥野幸道 拡大します

奥野さんが信玄の金山の話を投稿されたので、それが刺激となって連載「丹沢の鉱山跡を探る」が始まった。丹沢自然保護協会では、「丹沢を歩く」と言う企画があり、初めて大杉山登山で主宰の奥津昌哉さん(以下奥津さん)と知り合い奥津さんも同じ横浜山岳会で奥野さんと丹沢を登られていることを知った。「丹沢を歩く」には4回ぐらいは参加。奥津さんは、「奥野幸道 丹沢資料コレクション」CDの発案者であり奥野さんとは懇意の仲であった。奥津さんとはメールでのやり取りが続いていた。協会に加入しながら、神奈川県が企画した第1回丹沢エコツーリズム担い手育成講座に応募し、他県ながら合格。延べ期間2年半の養成講座を受講し修了。受講生が集まりNPO法人丹沢自然学校を創設。初代会員となった。その間 日本山岳ガイド協会の自然ガイドⅠを取ることができ、自然ガイドⅡにステップアップ。自然ガイドⅡだと活動範囲が狭いので、登山ガイドを始めから取直し、登山ガイド(現在では登山ガイドⅡ)を取得。丹沢自然保護協会で受け持っていた水質調査も奥津さんが主宰で行っていたが、その奥津さんも突然お亡くなりになり非常にショックを受けた。不思議なことに所属NPOが丹沢ボラネットに加入したら水質調査の割り当てが、仲の沢林道、県民の森、中ノ沢乗越下の経角沢になった。このコースは奥津さんが主宰で担当していた場所なので、何かの因縁を感じる。今年も水質調査がめぐってきたが、奥津さんが計画して果たせなかった、県民の森→欅平→中ノ沢乗越→同角山稜→同角沢→東沢乗越→欅平の周回コースを感慨にふけりながら廻った。

奥野さんからは毎年年賀状を頂いていたが、最後に頂いた手紙に1枚の新聞記事が同封されていた。この記事の場所は、丹沢鉱山と思われるが、モチコシ沢の玄倉鉱山とも思われる。

奥野さんから送られてきた記事 信玄の金鉱 多分神奈川新聞 拡大します

鉱山局で玄倉鉱山の鉱区原簿を書き写してきたが、そこには3本の坑道が記入されていた。
1本目は左岸の「丹沢だより」の奥野さんの写真と同じだが、2本目は奥野さんの遡行図に一致する右岸にあり、再発見者は、YAMさんであるが、どうもあと1本見つかっていない坑道があるようだ。

 奥野さんも鉱山跡には、興味があったようで「丹沢だより」の記事、世附金山沢の記事と、今回の新聞記事 昔の遡行図には、モチコシ沢に鉱山の記号、「奥野幸道 丹沢資料コレクション」CDには鎌田鉱山の位置が記され、有隣堂が主催した懇談会では、鉱山の話が出てきている。
現代登山全集8富士 丹沢 三ツ峠 モチコシ沢遡行図 尾根より東沢へ経路 拡大します

今回この記事を書いたのは、奥野さんがご逝去されたことに関して、私なりの丹沢へのこだわりを整理したかったことと、丹沢に導いて頂いた奥野さん、奥津さんにお礼をいたしたかったためです。奥野さん 奥津さんと大好きな丹沢の話が交わせますね。色々お世話になりました。奥野幸道さんのご逝去を悼み,謹んで哀悼の意を表します。


参考文献
丹沢自然保護協会:丹沢だより409号 丹沢回想 武田信玄の金山 奥野幸道

昭和42年8月30日刊 
創元新社 現代登山全集 8 富士 丹沢 三ツ峠 pp.169 奥野幸道 遡行図

YAMさんのWebpage
http://scn-net.easymyweb.jp/member/YAM/default.asp?c_id=110908
向山ノ頭、モチコシ沢鉱山跡、女郎小屋左岸尾根2009/9/20

有隣 バックナンバー平成14年4月10日 第413号
座談会 わが愛する丹沢(3)

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