丹沢の鉱山跡を探る プロローグ 丹沢だより426号 2006/1

丹沢の鉱山跡を探る 1   


1. プロローグ

丹沢某所の坑道最深部

 以前から水無川右岸の鉱山道とか、信玄の金山の伝承とかが、気にかかっていたことは確かだった。今回 玄倉の前尊仏様を調べている最中に玄倉に銅山があった。との史実にぶつかり、また新編相模風土記稿の三廻部観音寺の項に山中に金山があった。との伝承にもぶつかり、気にかかっていたことに火がついてしまった。一銭の金にもならぬことだけど、ちょっと面白い結果も出そうだし、男のロマンと言うことで鉱山跡(採掘跡)探しを始めてしまった。

 子供の頃 親にねだって鉱石標本セットを買ってもらったことがある。何時ともなく標本は、ばらばらになり失われてしまったが、鉱物とか鉱山とか聞くと今でもワクワクする。

 鉱物に関しては、まったくの素人だが、山登りは年季が入っているので、丹沢山中の鉱山跡等を調べてみようと思い立った。

 登山をしている人は、蝶や花、草木には興味をしめすが、ゴロタの石など気に掛けない。
 鉱物を探している人(ミネラルハンター)は、登山なんかにゃ興味ないだろう。
スキマ的に両天秤を掛けている人は、周りを見回しても今のところ居ないみたいだ。Web
を徘徊しても神奈川は、鉱物(造岩鉱物を除く)、鉱山に関してはまったく空白地帯。それに比べれば山梨、埼玉(秩父)、静岡は、鉱物、鉱山に関連した紹介が、なんて多いことだろう。

 不遇な神奈川 丹沢で一山当ててやろう。と山師根性で取り掛かったは良いが、なんせ
鉱物に関しては、まったくの素人。どこから手をつけてやればよいか皆目見当もつかない。西丹沢自然教室、玄倉森林館には丹沢山中の岩石標本が並べてあるが、どれも同じようにも見えるし、違うようにも見える。ひょっとしたら一山儲かる(冗談)、神奈川県産金属鉱石類は、展示されていない。

 県立生命の星・地球博物館、平塚市立博物館などで調べたら、やはり丹沢山中では、銅や金、マンガンは見つかっていた。だが、とても採算の取れるものではなかったようだ。ただ戦時中は、戦略鉱物としてマンガンが採掘されていたことがあっただけである。

 見つかったということが判明していても、今となっては場所の特定は、到底できないようだ。忘れ去られた丹沢山中の鉱山跡。ミネラルハンターも神奈川には興味がないらしく、だれも探していない。今のうちに探し出して場所を明確にしておきたい。と言う欲求がうずうずと沸いてでてきた。

はたして丹沢山中のかなやま金山は、いずこにあるのか……

 鉱山考古学の本によると、昔 かなやま金山といえば単に金を採掘していた場所を指すわけではなく、金属鉱石を採掘していた場所の総称をかなやま金山と命名していたそうである。そして、金を黄金、銀を白金、銅を赤金と区別していたそうだ。
 また そういった場所を示す文字には、かね金の文字が使われていた。かね金以外にも「赤、銀、盆、鍋、釜、堀、刈、割、寄、越、棚、玄(眩)、光、延、曲、鶏、蛇、百足、蛭、長者、倉、千軒、百軒」なども金や金山衆の集落、金山信仰などの隠語として可能性があるとのこと。
 今のような採鉱技術がなかった大昔の鉱山の場所は、沢沿いの露頭が偶然発見されたり、山崩れで出てきた露頭が見つかったりした場所が多いとのこと。

 これらから推測すると丹沢では、大倉、堀山、玄倉、寄、長者舎、鍋割沢、蛭ヶ岳、各地の棚沢、盆沢なども可能性があることになる。(鍋割山は、別名三ノ萱のほうが昔からの名前なので除く。大倉、掘山も、とりあえず除く。棚は、丹沢では、滝を示すので除く)

 玄倉は、銅山があったとの史実がありまた、信玄の隠し金山伝承もある。長者舎は、上流に金山谷をひかえ、棚沢(例外採用)、鍋割沢は、小金、大金沢の金山伝承の周辺にあたり、蛭ヶ岳直下の熊木沢には、盆沢がある。寄は、玄倉川最深部(蛭、盆、鍋割、棚、大金、小金沢)への秦野方面からの中継地点にあたり、これら最深部へのアプローチは、玄倉よりも寄の寄与が大きいことは、オガラ沢から鍋割峠を経て寄まで馬が通れる経路があったとの事実からも明白である。もっともこのオガラ沢からの経路、明治時代は、炭焼きや製材運搬のための経路だったそうである。

 手始めに丹沢の地図で地名に明確に「かね金」がつき、かつ、沢沿いの地名を探し、ついでにおまけで水晶と名の付く場所を探すことにした。

この赤(焼けの状態)と名が付く場所は、以下の理由で優先的に調べることにした。

 産業技術総合研究所Webの地質標本館のQ&Aに以下の記載があった。以下引用

Q:金等の鉱脈があると地表に現れやすい岩石があると聞いておりますが、そのような展示はあるのでしょうか?


A:金鉱脈が露出している場所には、硫化鉱物の酸化によって鉄さびが出来ますので、褐色岩石があります。金鉱脈が地下に隠れている場所には、鉱脈が出来るときに岩盤の割
れ目を伝わって上昇した温泉水や蒸気の影響が見えることがあります。その場合には、
岩石が粘土や珪酸鉱物に変化し白っぽくなったり、細粒の黄鉄鉱が出来て青っぽくなった
りそれが酸化して褐色になったりします。引用終わり

 これは、一般に「焼け」と云われている現象らしい。露頭で黄鉄鉱などが酸化して黄褐色や茶色に変色している部分。「焼け」が在るということは鉱物があるという目印になる。そういえば、丹沢山中で赤錆だらけの崖にであったことが幾度か合った。その時は、「鉄分が多い場所だな」くらいしか考えず、今となっては、その場所も思い出せない。

 さて調べた地図は、古くは秦野山岳会編丹沢山塊概念図、ハイキングペンクラブ編丹沢山塊全図、最近の日地 丹沢山塊、昭文社 丹沢山塊などである。

金・水晶・赤・焼けがつく場所

世附川流域 本谷の金山沢、大又沢上流バケモノ沢の枝沢の水晶沢と赤沢

中川流域  モロクボ沢枝沢の水晶沢

玄倉川流域 小川谷上流 金沢、玄倉川中流の赤棚、桧洞枝沢の水晶沢と金山谷乗越沢?箒杉沢枝沢の大金沢、小金沢

中津川流域 タライゴヤ沢枝沢の金林沢、桶小屋沢上流の金山沢

早戸川流域 鳥屋鐘(金)沢、宮ケ瀬鐘(金)沢、水晶崩れ沢、水晶沢?

 本間の頭の周囲には、鳥屋鐘(金)沢、宮ケ瀬鐘(金)沢、桶小屋沢上流の金山沢が
取り巻いている。

神ノ川流域 金山谷

道志川流域 金山沢、モチハギ沢枝沢の金沢

 秩父ほどではないが結構ある。登山地図に載っていない近隣の里山にも金のつく場所
があるはずである。しかし、きりがないので探すのをやめた。

 はたして、どこの場所が信玄の金山だったのか?新編相模国風土記稿に書かれている
失われた山奥の金山は、どこだったのか?これは一説によると大金沢、小金沢周辺だったのではないかと言われているが真偽の程は、判らない。
(*水無川流域の金冷やしは、別名 睾冷やしとも書くので除外、焼山も炭焼きの煙、カヤトを焼いた煙をさして焼山と言ったようなので除外)
 
 次に手持ちの丹沢のガイドブック、雑誌の記事に目を通し、山行記録の中に埋もれてい
る金、鉱山、鉱物、焼け等のキーワードから場所を探した。なんせ登山者の山行記録に
は、鉱物のことなど書かれるわけでもなく紀行文の中に出てきたり、地質の紹介のところ
出てきたりで、頼れる記事は、ほんの少ししか見つからなかった。それでも見つかったの
は、水無川の大日鉱山、小川谷支流東沢に鉱山、モチコシ沢源頭部の鉱山跡などであった。
 そのほかにもあったが、これからのお楽しみにとして、今回は、公表は差し控える。
ちなみに一番古い記録で鉱物のことが書かれているのは、明治39年発行日本山岳会誌
「山岳」一年1号に出てくる高野鷹蔵氏の登山記「塔が岳」であった。若かりし武田久吉
博士も同行、学術的研究を含めた登山記として、皆さんも一読されているかも知れない。以下引用
岩石の有様はわれわれ素人目には判らないが、いろいろに変化しておって花崗岩が露出しているかと思うと、また粘板岩らしいものがあったりする。案内が先年ここから鉛が出るとかで岩を取って行ったという所もある。たしかにハンマーの跡もある。玄倉の近傍から水晶が出たことがあるそうで、また銅鉱もあるとかのことも聞いた。要するにこの付近は神奈川県下での産鉱地なのであろう。引用終わり。

 そのほかの金山の兆候としては、植生があげられる。それは金山草と呼ばれる羊歯類、石楠花、ムラサキシキブなどだ。これら植物は、選択的に金属を体の中に溜め込む性質があり金山周辺では多く生育するそうである。特に羊歯類(ヘビノネゴザ)は、昔から金を探す時の目印だったそうだ。武田信玄の金山衆の旗印は「ムカデ」が使われておりこれは、羊歯がムカデと似ているからだそうだ。
 山師の守り神に、ムカデが使われていたことにも関係するのだろう。また、山神様も鉱山の近くにお祭りしてある例が多くあるので山神様を捜すことも、より鉱山跡発見の確率も上げる方策になると思う。

 石臼も鉱山考古学上重要な遺跡になる。大昔は、金鉱石を石臼で擂り潰して水で選鉱していたそうで甲州の黒川金山跡には、今でも石臼がごろごろしているそうだ。

 また砂金も重要な指標になる。下流で砂金が取れることは、上流のどこかに金鉱石の露出している部分がある可能性が高い。と書き連ねてきたが……

 鉱山跡を探す事は、非常に大変な作業であることに気がついた。これらの兆候をもとに地図上のリストされた場所を片端から歩き廻って調べるなんてことは、到底無理。一攫千金を夢見て、山師となり野山を調べまわるのも一興だが、家族もあることだし、ほかにも登りたい山もある。考えてみれば 武田信玄以来約430年間 天変地異の大地震、その後の台風、水害、最近の関東大震災、相模地震、昭和47年の大水害で丹沢山中も山抜けが起きたり、沢筋でも堰堤が作られ川床が上昇したりして、地形も大幅に変わり坑道、採鉱跡等も破壊されてしまって跡形も無くなっていることであろう。

 信玄の隠し金山や三廻部の金山を調べる前に、手始めに昭和の時代の鉱山ならまだ、様変わりも少ないだろうから、これらの時代の鉱山跡をまず探ることにした。

次回ご期待 「2.ちょっと調べれば分る鉱山跡」

参考図書・文献

地質・鉱物一般


神奈川県立博物館編,1991:南の海からきた丹沢,有隣堂


神奈川県立博物館,1989:特別展示解説書「神奈川の鉱物-自然の中の小さな輝き」,神奈川県立博物館


神奈川県立生命の星・地球博物館編,2000:かながわの自然図鑑1 岩石・鉱物・地層,有隣堂 


山北町,2002:山北町史 別編 山北町の自然 Ⅳ山北町の地形・地質,山北町


森慎一ら,自然と文化No.7 1-18、1984 神奈川県内産の鉱物,平塚市立博物館  


加藤昭ら,神奈川自然史誌資料(17)95-107、1996神奈川県産鉱物目録,神奈川県立生命の星・地球博物館


玄倉銅山


高田稔,1988:開成町史研究2、1.代官・蓑笠之助正高の研究(2)銅山の開発と鋳銭,文化財保護委員会


三廻部金山


雄山閣編,1972:新編相模国風土記稿, 雄山閣


その他鉱山跡・採掘跡のピックアップ


 諏訪多栄蔵・山口耀久・山崎泰治他編,1967:現代登山全集8 富士丹沢三ッ峠 


高野鷹蔵氏の登山記「塔が岳」、モチコシ沢、セドの沢左又, 創元新社


羽賀正太郎,1967:アルパインガイド23 丹沢:水無川本谷と大倉尾根、モチコシ沢,山と渓谷社


川崎吉蔵編,1952:丹澤の山と渓 背戸の澤,山と渓谷社


金山・採鉱関係


 今村啓爾,1997:戦国金山伝説を掘る,平凡社


 文葉社編,2003:趣味の砂金採り入門,文葉社


 藤野明,1991:銅の文化史,新潮社

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