丹沢の鉱山跡を探る 11  丹沢だより436号 2006/12(玄倉の幻の銅山跡・小川谷源流部探索)

丹沢の鉱山跡を探る 11             


4-3.「玄倉の幻の銅山跡」玄倉は、元鉱山町(村)であったのか?

 さて今回は、仮説として立てた「玄倉は、元鉱山町(村)であったのか?」について、いろいろな傍証を基に考えてみたい。前号、前々号では想定位置付近に坑道が、まったく偶然に、しかし「見つけてくれ!」と言うがごとく見つかってしまった。この号もすこし強引なこじつけもあるが、ご容赦願いたい。

玄倉周辺の鉱山に関係していると思われる傍証

赤棚

 戦前の坂本光雄氏らの玄倉渓谷遡行記を読むと、現在の玄倉林道・境隧道の玄倉川沿いに、赤棚とノリコケ岩の地名が付いている場所がある。この赤棚、岩石が赤く染まっているので名付けられたそうだ。「丹沢だより426号」プロローグで述べたように「赤」が付く場所には鉱脈・鉱山があるという謂れ通り、この場所には酸化され赤褐色になった磁硫鉄鉱・黄鉄鉱がある。また地元の伝承によると(山口喜盛氏私信)かつて坑道があったそうだ。しかし前号の探索では、それらしき跡は見つけられなかった。さてこの赤棚の先には、女郎小屋沢出合がひかえている。また下流には芋ノ沢がある。

芋ノ沢

 昭和初期の登山ガイドや森林基本図では玄倉林道・境隧道直下で玄倉川に出合う沢が芋ノ沢となっている。また女郎小屋沢の出合い直ぐの左股の沢にある堰堤にも、芋ノ沢の記名板が付いている。はたしてどちらが本当の芋ノ沢なのであろう?こんな場所で芋が取れるわけでもなく、なぜ芋ノ沢と名付けられていたのでろうか?若尾五雄氏によると「芋とは鉱脈を表す言葉でもあり、芋づる(鉉)と置き換えることもできる。また鋳物とも置き換えることができる。」とある。これから察すると赤棚の旧鉱もしくは、その下流にあった鉱山跡を示しているのだろうか?さらに芋ノ沢出合玄倉川左岸には、台地状の場所があり、境隧道上からの経路が降りてきている。(この経路は、さらに玄倉川を横切り芋ノ沢の頭を経由して、中ノ沢休泊所まで繋がっており、今でも辿れる立派な経路になっている・御料林経路)坑道を掘るためには、鏨や玄翁が必要である。それらは鋳物で作られていたので、この台地状の場所は、作業用工具の鋳物工場(鍜治場)があったのかもしれない。

女郎小屋沢出合

 山中の女郎小屋と言うと昔から鉱山に関係していることが多い。この女郎小屋沢の名前の由来 吉田喜久治氏の「丹澤記」によると測量の時の丈量から由来している。とある。地元の伝承では明治時代に女郎を身請けした人が炭焼きを行っていた。大昔女郎小屋があった。などと言われている。出合は、ある程度の平地があり人が住める雰囲気もあり、付近には芋ノ沢、赤棚などの鉱山に関係する地名もある。
 玄倉村中に忌み仕事の女郎小屋を設けるわけにはいかず、出先の鉱山の近くで物資の供給が容易に出来る場所に設けられたと考えると、納得の行く場所である。武田信玄時代に発見されたと言われている東沢の鉱山からは、女郎小屋沢左岸の尾根を辿れば簡単に着く。現に足柄之文化2号に記されている「信玄の丹沢金山をたずねて」では、小学生を含めたグループが金山を見た後、この尾根を降りて玄倉林道に辿り着いている。さてこの場所に「人が住む」となると生活物資の補給路が重要な位置をしめる。玄倉から山神峠には立派な経路があり、そして山神峠⇔境隧道のルートのどこかに女郎小屋沢出合に抜ける経路が隠れている可能性もある。

山神峠の山神様と水神様

 鉱山のある場所には、山神様が祭られることが多い。山の懐に穴を穿つ行為自体が、山神様の怒りを買う恐れもあり、安泰に採掘できるように鉱山の近くに山神様を祭ることは以前から報告されている。山神峠の山神様は、一般的には林業関係の人が拝していたようだ。と言われているが、それではなぜ水神様が一緒に祭られていたのであろうか?小木満氏の丹沢だより269号ユウシン地名考(下)によると「孫仏詣でに塔の岳まで行くのに、玄倉川が平穏に通過できるように祈願したもの」となっている。同じく丹沢だより299号ユウシン地名考あれこれ(5)では、「材木の川流しをする人が拝して行った」とある。しかし、坑道を水害から守るために設けられた守り神と考えるのは、おかしくないであろうか?玄倉にあった鉱山は、出水に悩まされ続けていたことが記録から伺える。ちょうどこの山神峠、境隧道に向かう経路の分岐点でもあり、近くに女郎小屋沢もある。また赤棚の旧鉱があった場所にも近い、そして前号で紹介した坑道もすぐそばである。境隧道の上を通っている経路はT字型に分岐し一方は、玄倉林道。もう一方は山腹をまいて玄倉川に下り、そこはちょうど芋ノ沢出合にあたる。

この山神様の付近は、明治39年発行日本山岳会誌「山岳」一年1号に出てくる高野鷹蔵氏の登山記「塔が岳」に出てくる鉱産地帯でもある。以下引用
岩石の有様はわれわれ素人目には判らないが、いろいろに変化しておって花崗岩が露出しているかと思うと、また粘板岩らしいものがあったりする。案内が先年ここから鉛が出るとかで岩を取って行ったという所もある。たしかにハンマーの跡もある。玄倉の近傍から水晶が出たことがあるそうで、また銅鉱もあるとかのことも聞いた。要するにこの付近は神奈川県下での産鉱地なのであろう。引用終わり。のまさに「この付近」なのである。この記録とは別に戦後 神奈川県下の鉱物資源を調査した報告によると、やはりこの付近には銅を含んだ硫化物鉱が見出されている。

欅平

 小川谷東沢出合の欅平 いかにも集落があったような台地がある。ここには昭和初期ワサビ田があったそうだ。いまでもその名残がある。その上流新山沢の左岸から小川谷にかけての河岸段丘のような場所にも、集落があったような台地が存在しているが、ここには炭焼き小屋があったそうだ。一部には道型が残っている。玄倉から東沢の源頭部の鉱山跡へは、片道3時間も掛かる。あそこで仕事をする場合、どうしても鉱山近くに出先の村が必要になるが、欅平は打ってつけの場所である。小川谷上流には、金沢があり、そこには硫化物鉱の露頭がある。玄倉へは「信玄ノ隠シ道」で結ばれている。途中には、中ノ沢休泊所跡(コガイ平)があり、ここには、境隧道から来ている経路が繋がっている。また箒杉まで通じる経路も存在していた。

褐色の岩石
                           

茶褐色の転石


珪孔雀石の転石

 小川谷廊下を遡行していると、時々石英閃緑岩(今はトーナル岩と言っている)の白い岩肌とは、とても似使わない褐色の岩石を見ることができる。赤錆がかった褐色の岩石 普段は気にも留めてなかった単なる石。持ってみると、同体積の岩石と比べてずっしりと重く、最初は磁石が付くので鉄の塊か?と思った。小川谷廊下の遡行は、東沢出合・欅平が通常は終了点だが、そのまま遡行することもできる。(昔は、桧洞丸への登路として使われていた)この先 中ノ沢乗越までは、悪場もなく単なるゴーロ歩きに終始する。テシロ沢出合を右に折れしばらく行くと褐色の岩石が露出した崖が左岸に出合う。
 どうやらこの岩石が下流まで流れてきていたようだ。実はこの褐色の累々たる岩石、磁硫鉄鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱が混ざった層状の銅硫化鉄鉱床(キースラーガー)らしい。産業技術総合研究所の地質標本館青木館長に現場写真をお見せしたところ以下引用「硫化物鉱物を含む鉱脈の存在を納得。大きな塊で、しかも密集していることから、鉱脈のすぐそばだと思います。黄鉄鉱と黄銅鉱を含んだ鉱脈が酸化鉄に変わり褐色になったわけです。」との見立てだった。またテシロ沢出合の左岸中の転石中に、よく探すと珪孔雀石を見つけることができる。これは東沢やモチコシ沢の坑道内で見たものと同じ鉱石で、銅を含んだ鉱石である。左岸上部は、同角の頭が位置しており、また中ノ沢乗越に向かう枝沢(まさにこの沢)は、古いガイドブックによると金沢となっている。東沢の上流部分は、金山沢と呼ばれており同角の桧洞側には、水晶や輝水鉛鉱が取れた場所がある。また桧洞上流部は、鉱山に関係があると思われる桶棚沢の別名。このように同角の頭周辺は、鉱脈が取り囲んでいるようだ。奥野氏が「丹沢だより409号武田信玄の金山」で述べられたように同角は、「銅角」かもしれない。

通山(とおりやま)の穴

 坂本光雄氏の書かれた山と渓谷28号「丹澤玄倉川と周圍の山々」には以下引用 コガイ平には、震災前には相富人家が有ったが、現在では無人の家が二、三軒あり中の澤休伯所となってゐる。又、山神峠から玄倉川を横切り、敷地山の尾根を越えて中の澤休泊所へ至る、林野の徑路が猶も前記の箒澤部落へ達している、コガイ平から降つて、官有線記號の手前の頽岩記號が俚稱大岩、官有線記號下がヤシチ平、此に地下五十尺許りの大穴が有り今では?引用終わり、同じく熊井勝三郎氏の書かれた33号「檜洞丸あたり」には以下引用地圖上官有線記號のある通山尾根が流れて來てゐるあたり彌七平と呼ばれてゐる。その名の通山尾根でも知られる様に往昔は甲斐から相模への武田信玄あたりの隠し道になってゐて軍事上必要な往來にされてゐたらしく、玄倉の人達がかつてここに大穴があるのを偶然に見出しいずれその底には、軍用金の壷でも?と盛んに發掘したそうだが、掘れども掘れどもその底を知らずついにあきらめてしまった。引用終わり 現在この場所は弥七平に該当するが、大穴の場所は定かではない。きっと埋もれてしまったのであろう。さてこの大穴 鉱山の跡ではなかったかと思うが今になっては確かめようがない。

まとめ

 東沢を含め敷地山から同角の頭付近は、地質学的に見れば、丹沢層に貫入する石英閃緑岩の頂部にあたり、金属が濃縮された鉱床があってもおかしくない場所である。小川谷上流部分の金沢では、硫化鉱の露頭が存在し、また珪孔雀石の露頭も左岸のどこかに存在している。鉱山と言うと坑道を直ぐに思い浮かべるが、掘削技術が未熟な時代には、露天掘りもされていたのだろう。山師は、鉱脈を見つけるためには、川の転石を見たり、沢を遡行して露頭を見つけだしたりする。特にこの周辺では銅鉱石が頻繁に採掘されていたが、その量は少なかったようだ。
 銅鉱石が取り尽くされた後、玄倉や白井平等で、鉱山労働者がその場を離れず林業で生計を立てるようになり、引き続き住んだ場所であったとしてもおかしくはない。東沢の鉱山発見から玄倉銅山まで年代的には約70年の隔たりがあるが、細々と採掘は色々なところで行なわれていたのであろう。しかし採算的にはギリギリの線なので人々の記憶からは忘れ去られ、時としては見出され受け継がれていた。その証拠に調べてみると結構鉱山に関係した傍証が玄倉周辺には多いのである。つづく


次回4-4 「玄倉の幻の銅山跡」(玄倉は、元鉱山町であったようだ) 

参考文献(4-2,3,4)は、次回まとめて掲載

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