丹沢の鉱山跡を探る 7 丹沢だより432号 2006/7(玄倉鉱山 第一坑道発見)
丹沢の鉱山跡を探る 7 (モチコシ沢左岸坑道)
3. 「丹沢だより」の記事から
3-3-2.まだまだ続く「東沢の鉱山」 玄倉鉱山(モチコシ沢源頭部) 探訪
今回は、早春の玄倉 東沢を探訪した。始発のバスで玄倉下車8時すぎ 玄倉で降りる人は、ほんのわずか。ところどころに三椏が色づいている尾根を眺めながら一路 仲の沢林道の終点「県民の森」へ、そして中ノ沢経路へ(行政では、仲の沢と呼称)。
さて あの時(1992) 丹沢自然保護協会が動かず、仲の沢林道工事が止められなかったら、この中の沢経路や小川谷廊下も無くなっていたであろう。今では、このことは登山者に知られることも無く、数多くの人が遡行する小川谷廊下。あの時に工事を止められて本当に良かったと思う。「薬研のように切り立った廊下、ほとばしる水流、濡れることを厭わなければ楽しめる遡行、だいぶ水底は浅くなったが腰まである徒渉」もし工事が行なわれていたら、小川谷廊下のこんな光景は失われていた。今回東沢を調べるにあたり、行政側の資料を何点か手に入れた。(仲の沢流域治山基本調査報告書類)この報告書には、丹沢自然保護協会の行動がスクラップされていた。(残念ながら鉱山に関する記事は、無かったが…)
閑話休題 さて 途中富士山が見える場所を目印に中ノ沢経路を辿ると、欅平に着く手前で尾根を越える場所がある。ここで振り向くと大杉山方面の稜線上に富士山が見えた。まさしく記事の「途中から富士の姿が紅葉の山の頂きに浮かび出て見えた」の場所。東沢に入る手前で富士山が見えるとは、思いも寄らなかった。そして「山を上り、そして下る道もだんだん深山の様相を呈してくる。」の場所は東沢に入る手前にあった。
おなじみ東沢湧水口
3. 「丹沢だより」の記事から
3-3-2.まだまだ続く「東沢の鉱山」 玄倉鉱山(モチコシ沢源頭部) 探訪
今回は、早春の玄倉 東沢を探訪した。始発のバスで玄倉下車8時すぎ 玄倉で降りる人は、ほんのわずか。ところどころに三椏が色づいている尾根を眺めながら一路 仲の沢林道の終点「県民の森」へ、そして中ノ沢経路へ(行政では、仲の沢と呼称)。
さて あの時(1992) 丹沢自然保護協会が動かず、仲の沢林道工事が止められなかったら、この中の沢経路や小川谷廊下も無くなっていたであろう。今では、このことは登山者に知られることも無く、数多くの人が遡行する小川谷廊下。あの時に工事を止められて本当に良かったと思う。「薬研のように切り立った廊下、ほとばしる水流、濡れることを厭わなければ楽しめる遡行、だいぶ水底は浅くなったが腰まである徒渉」もし工事が行なわれていたら、小川谷廊下のこんな光景は失われていた。今回東沢を調べるにあたり、行政側の資料を何点か手に入れた。(仲の沢流域治山基本調査報告書類)この報告書には、丹沢自然保護協会の行動がスクラップされていた。(残念ながら鉱山に関する記事は、無かったが…)
閑話休題 さて 途中富士山が見える場所を目印に中ノ沢経路を辿ると、欅平に着く手前で尾根を越える場所がある。ここで振り向くと大杉山方面の稜線上に富士山が見えた。まさしく記事の「途中から富士の姿が紅葉の山の頂きに浮かび出て見えた」の場所。東沢に入る手前で富士山が見えるとは、思いも寄らなかった。そして「山を上り、そして下る道もだんだん深山の様相を呈してくる。」の場所は東沢に入る手前にあった。
足柄之文化2号の記事の鉱山、東沢にあった丹沢鉱山と見てまちがいないだろう。東沢出合には10時30分到着 何回も通った東沢。今度は、やまし鉱山師の目で水際を舐めるように遡行した。足柄之文化の記事には鉱山があることがはっきり書かれている。また過去のWeb、掲示板等からの情報では、レールやトロッコの車輪が埋まっているとのこと。絶対あるはずであるが、今まで、なぜ見つけられてなかったのか不思議でならない。
苔むしたナメ滝を越え、鉱山があったと思われる中間部到着。しかしレールや車輪も発見できなかった。昭和30年代に、採掘が行なわれていたならば作業小屋の残骸や機械類が見つかってもよいものを。現に立間大橋のそばにある小川谷山荘はまだ残骸を晒しており、そんなに簡単に残骸が無くなることは、無いはずである。昭和47年の大水害で埋もれてしまったのであろうか?両岸を舐める様に調べたがそれらしき兆候はなかった。一箇所焼けがある場所を見つけたが、周辺は、石英閃緑岩が風化したマサ土で覆われ、またしても坑道は発見できなかった。やはり埋もれてしまったようだ。
足柄之文化の記事の「信玄の金山」もうあきらめるしかないのか…さらに遡行して右岸の湧水口に到着 いつもの湧水口は、埋まらず滾々と湧き出ていた。ひょっとしたらここが坑道だったのか?と思いストックを最大限に伸ばし、奥を探ったら上方に向けてなんと肩まで入った。湧水口の奥行きは2m以上あると思われる。奥を覗いてみたが、とても坑道跡とは思えない。
気持ちを切り替えてモチコシ沢源頭部にある玄倉鉱山を目指すことにした。東沢乗越に向かって右岸の急斜面を登りながらトラバース。この辺から富士山が見えるはずであるが春霞のためか見えなかった。やっとのことでモチコシの頭到着。おなじみの古い東沢乗越を指し示す標識も健在だ。ここから女郎小屋の頭、大タル丸にかけての稜線は、いつ来ても雰囲気のよい場所だ。
さて今度は、場所が判明している玄倉鉱山へ行くため、モチコシの頭と裸山丸の鞍部からモチコシ沢源頭部へ下降するのだが、急なマサ土の斜面で一端スリップしたらベアリング玉が撒いてあるような斜面を一直線に落ちそうで非常に緊張した。ザイルが欲しい!しばらく左岸を探しながら下降、またしても見つからない。場所は閉鎖原簿から特定できているのだが、やはり埋まってしまったのか!?丹沢鉱山は見つからなかったので、また外したかと言う徒労感に襲われる。大崩壊地を越えた左岸に窪み発見。あった!入り口は、半分以上埋まっていた。沢芯からはずれたところなので遡行者には見つからないだろう。
日本ウラン鉱業の鉱区一覧への初出は昭和33年(1958)試掘登録番号470であるが、昭和31年には(1956)試掘登録番号402で浜村氏が同一の鉱種、面積で登録を受けているので日本ウラン鉱業が、その後の権利を譲り受けたと考えられる。鉱種は金、銀、銅、ビスマス、コバルト、モリブデン、タングステンであった。鉱脈は、丹沢層群を貫く石英閃緑岩中にある。昭和37年(1962)に採掘登録番号25 登録者 日本ウラン鉱業として本格的な採掘に移行した。昭和45年(1970)の鉱区一覧にも記載があるので権利は継続していたようだ。会社名にウランが入っているのでウランを探していたのだろう。
さて今度は、場所が判明している玄倉鉱山へ行くため、モチコシの頭と裸山丸の鞍部からモチコシ沢源頭部へ下降するのだが、急なマサ土の斜面で一端スリップしたらベアリング玉が撒いてあるような斜面を一直線に落ちそうで非常に緊張した。ザイルが欲しい!しばらく左岸を探しながら下降、またしても見つからない。場所は閉鎖原簿から特定できているのだが、やはり埋まってしまったのか!?丹沢鉱山は見つからなかったので、また外したかと言う徒労感に襲われる。大崩壊地を越えた左岸に窪み発見。あった!入り口は、半分以上埋まっていた。沢芯からはずれたところなので遡行者には見つからないだろう。
半分に埋もれた抗口
はかるくん
今回は、ウラン鉱の確認もあり秘密兵器「はかるくん」(放射線検出器・文部科学省が貸し出し)を持参した。モチコシの頭では0.021マイクロシーベル/h(μSv/h)この値は、バックグラウンドと見て良いだろう。坑道入口では0.043μSv/h約2倍。恐る恐る坑道に侵入した。内部は、立って歩けるぐらいの高さで崩落の跡もなく坑道は20mくらい続いていた。「はかるくん」は、放射線を感じるとピッと音が出るのだがピッの音もまばらな感じ。
数値は、大きく変動するわけでもなく0.04付近をうろうろ。やはりウラン鉱は無かったか!そして行き止まりに到着。大地の胎動を感じるような微妙な雰囲気。ヘッデンの光に照らされた周辺の岩盤を良く見るとなんと金色の点が無数存在するではないか。よもや「金」と喜び勇んで破片を採り坑道外へ、ルーペと針で調べたら何のことは無い只の「金雲母」であった。一攫千金の夢は、またもや破られた。坑道の途中には掘り下げられた穴もあり、こちらの側壁には珪孔雀石、孔雀石、焼けの兆候があり銅脈があることがわかる。
実際 鉱脈を坑道で見たのは初めてであった。帰りは、モチコシの頭と女郎小屋の頭の鞍部を目指して左又を登った。この分岐にはつるはし鶴嘴の頭部分が木に刺さったオブジェがあり、鉱山跡の匂いを感じさせられた。「玄倉鉱山」入るのに玄倉から5時間。出るのに3時間。それもモチコシ沢の源頭部。よくぞ手彫りでここまで掘ったかと思う坑道である。やまし鉱山師は、いろんなところを跋渉しているようだ。坑道を掘るきっかけはなんだったのだろう鉱脈が露出していたのであろうか?はたまた神か仏の啓示であろうか?
坑道途中にある側坑道
「玄倉鉱山」 玄倉から徒歩5時間 場所:モチコシ沢源頭部 左右 日本ウラン鉱業の鉱区一覧への初出は昭和33年(1958)試掘登録番号470であるが、昭和31年には(1956)試掘登録番号402で浜村氏が同一の鉱種、面積で登録を受けているので日本ウラン鉱業が、その後の権利を譲り受けたと考えられる。鉱種は金、銀、銅、ビスマス、コバルト、モリブデン、タングステンであった。鉱脈は、丹沢層群を貫く石英閃緑岩中にある。昭和37年(1962)に採掘登録番号25 登録者 日本ウラン鉱業として本格的な採掘に移行した。昭和45年(1970)の鉱区一覧にも記載があるので権利は継続していたようだ。会社名にウランが入っているのでウランを探していたのだろう。
ウラン鉱の産出形態の例として原子力委員会月報によると以下引用、「金、銀、タングステン、モリブデン、マンガン等の金属鉱物鉱床中に産出され、全国にわたり多くの鉱山に発見されている。この種の鉱床においては、部分的に高品位の鉱石が発見されているが、現在までに発見された鉱床においては平均品位が低く、かつ鉱床の規模も小さく、ウラン資源としての価値は少ない。」引用終わりとの報告もあり、この玄倉鉱山もタングステン、モリブデンの鉱種があるため、ひょっとしたら部分的にあったかもしれない。
文献には、この鉱山については不明な点が多いとの但し書きがある。丹沢鉱山を取り囲むように鉱区が設定されていたが実際何が採掘されていたか不明だ。ウラン鉱を狙っていたのか、はたまた丹沢鉱山のお裾分けで金、銅を狙っていたのか分からない。あの源頭部から運び出すのは、ロープウエイ(索道)でも設置すれば玄倉林道まで一足飛びだが源頭部なので量的に採算がとれなかったと思う。
ウラン等の放射性鉱物の探鉱方法は、実際に掘らなくても、放射能強度分布を目安として場所の特定が行なえるので絞込みが簡単なようだ。例えば航空機に高感度放射能測定器を積み込んだエアーボーン、自動車に同様な測定器を積み込んだカーボーンなどにより山岳部上空や林道をくまなく巡り放射能を測定することで放射能異常地帯が発見される。さらに絞り込みには、人が放射能測定器をもってくまなく歩き回るマンボーンなどが採られている。
明治44年から昭和45年までの鉱区一覧で丹沢山中にウランの鉱種が出てくるのは、昭和42年(1967)山北町での試掘登録番号843と、同年藤野町で試掘登録番号688、689で受けている3件しかない。どちらもハズレでよかったと思う。ウラン鉱は、そっと静かに置いて置いたほうが良いだろう。
余談
この同角、東沢、モチコシの頭から女郎小屋の頭の界隈。熟達者でも迷うことが多い場所だ。調べると結構な人たちが迷っている。古くは、「雨の丹沢奥山」を書かれた上田哲農氏、「丹澤記」を書かかれた吉田喜久治氏、そして当協会の奥野幸道氏らも迷ったそうだ。最近では、Webで良く知られている「マシラ」さんも道迷い。なにかモノノケがいて遊ばれているのか?地磁気が狂っているのか?不思議な感覚に陥る場所である。でも何回となく行ってしまう。言うなれば丹沢の胆みたいな場所だ。
「はかるくん」
文部科学省が貸し出ししている放射線検出器の名前・だれでも2週間借りられる。冊子によると花崗岩がある場所は、0.08μSv/hと値が高いそうである。ちなみに自宅では0.06μSv/h・ランタンのマントル(微量のトリウムが塗布されいる)は0.1μSv/hであった。
次回3-3-3.まだ、あきらめ切れなかった「東沢の鉱山」 丹沢鉱山
参考文献は、次回掲載
奥まで続く坑道
銅鉱石の痕跡(孔雀石)
ウラン等の放射性鉱物の探鉱方法は、実際に掘らなくても、放射能強度分布を目安として場所の特定が行なえるので絞込みが簡単なようだ。例えば航空機に高感度放射能測定器を積み込んだエアーボーン、自動車に同様な測定器を積み込んだカーボーンなどにより山岳部上空や林道をくまなく巡り放射能を測定することで放射能異常地帯が発見される。さらに絞り込みには、人が放射能測定器をもってくまなく歩き回るマンボーンなどが採られている。
明治44年から昭和45年までの鉱区一覧で丹沢山中にウランの鉱種が出てくるのは、昭和42年(1967)山北町での試掘登録番号843と、同年藤野町で試掘登録番号688、689で受けている3件しかない。どちらもハズレでよかったと思う。ウラン鉱は、そっと静かに置いて置いたほうが良いだろう。
鉱山跡のオブジェ 鶴嘴
余談
この同角、東沢、モチコシの頭から女郎小屋の頭の界隈。熟達者でも迷うことが多い場所だ。調べると結構な人たちが迷っている。古くは、「雨の丹沢奥山」を書かれた上田哲農氏、「丹澤記」を書かかれた吉田喜久治氏、そして当協会の奥野幸道氏らも迷ったそうだ。最近では、Webで良く知られている「マシラ」さんも道迷い。なにかモノノケがいて遊ばれているのか?地磁気が狂っているのか?不思議な感覚に陥る場所である。でも何回となく行ってしまう。言うなれば丹沢の胆みたいな場所だ。
「はかるくん」
文部科学省が貸し出ししている放射線検出器の名前・だれでも2週間借りられる。冊子によると花崗岩がある場所は、0.08μSv/hと値が高いそうである。ちなみに自宅では0.06μSv/h・ランタンのマントル(微量のトリウムが塗布されいる)は0.1μSv/hであった。
次回3-3-3.まだ、あきらめ切れなかった「東沢の鉱山」 丹沢鉱山
参考文献は、次回掲載
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