丹沢の鉱山跡を探る 3 丹沢だより428号 2006/3 (大日鉱山)
2-2 ちょっと調べれば分かる丹沢の鉱山跡
おなじみ旧坑道
崩落した別の坑道
旧坑道内部
おなじみ旧坑道上部の新しく見つけた坑道
おなじみ旧坑道上部の新しく見つけた坑道内部
マンガン鉱採掘当時の登山地図
2-2.「大日鉱山」(日本鉱産誌によると丹沢鉱山) 書策新道途中 大倉から徒歩約3時間
大日鉱山は、試掘届の登録年月から推定すると昭和8年(1933)登録番号試登151号で名和 皇氏らによって試掘が始められ昭和10年(1935)試登156号で堀井喜一氏らが同じ場所で試掘を引継いだようだ。戦中戦後(1951・135t/年)大規模にマンガン鉱を生産していた。昭和8年及びその後の試掘届では、鉱種は金・銀・銅・硫化鉄での試掘届が出されていたが実際は、マンガン鉱が取れていた。とりあえず、金・銀・銅など融資が受けやすいにかね金になる鉱物で試掘届を出すのが当時の出願のやり方であったようだ。
昭和24年(1949)の鉱区一覧には記載がないので、この年の前後に試掘を取りやめていたと考えられる。戦略物質のため戦争初期から鉱山周辺の立入りは、警察の許可が必要であり、また発破作業のため本谷及びセドノ沢は、登山者の通行は禁じられていた。
さて書策新道、元をただせば大日鉱山の鉱山道を改修、継ぎ足ししたものである。(旧平塚営林署の森林基本図にも示されているので営林署の巡視路としても使われている。)また奥野氏著「丹沢今昔」の水無川戸沢出合の項には、鉱山小屋として使われた仲小屋の写真が出ている。現在、書策新道が源次郎沢出合から水無川F5の上部を横切って木ノ又尾根(ツツジ尾根・ホソノノ尾根)に立ち上がっているが、古いアルパインガイド23「丹沢」の水無川本谷の項には鉱山道として書かれている。
さて書策新道、元をただせば大日鉱山の鉱山道を改修、継ぎ足ししたものである。(旧平塚営林署の森林基本図にも示されているので営林署の巡視路としても使われている。)また奥野氏著「丹沢今昔」の水無川戸沢出合の項には、鉱山小屋として使われた仲小屋の写真が出ている。現在、書策新道が源次郎沢出合から水無川F5の上部を横切って木ノ又尾根(ツツジ尾根・ホソノノ尾根)に立ち上がっているが、古いアルパインガイド23「丹沢」の水無川本谷の項には鉱山道として書かれている。
この鉱山道の途中から別に、水無川F2の上部を経て直接木ノ又尾根に通じる経路もあったが、廃道化しており、かろうじて分岐する踏跡が確認できる。(日地の古い丹沢山塊の地図1980年版には記載がある)また明治25年発行の陸測2万分の一地図「塔嶽」にも、この鉱山道とおぼしき経路が水無川から木ノ又大日の途中まで登っているところをみると、この鉱山道も元は、何らかの仕事道であった可能性が高い。
大日の名前から修験道の参拝路だったのか、古くから鉱山があったのか?今となっては分からない。(今でも書策新道の途中から木ノ又大日に直接登る経路があり、バリエーションルートとして一部の小屋関係者には周知の事実で、急登だが眺めは良い)
さて新道は、木ノ又尾根から離れ、セドノ沢に出合う。この大日鉱山、現在も新道途中のセドノ沢左股枝沢 白竜ノ滝上部を辿ったところに坑道があり、穴から清水がコンコンと湧き出ている。最近調べたおり、このほかにも周辺に3箇所坑道が確認できている。しかし、ガレ場の上にあるので近づくのは危険だ。
以前 渋谷書策さんを小屋に訪ねたおり、採掘されていたマンガン鉱の塊を見せてもらった。ずっしりと重い磁石に付く黒い鉱石であった。書策さんは、磁石に付くことがマンガン鉱の特徴だと言っていた。マンガン自体は、磁石が付かないので多分、鉄分が混ざったヤコブス鉱、もしくは緑泥石で、表面が酸化されため黒色になっているものと思われる。書策さんが言われるのには、この坑道から流れ出る水で素麺(うどん?)を茹でると、とても美味しいそうだ。この大日鉱山、ちょうど新道がセドノ沢に合流する付近に飯場などもあった。現在は、飯場跡の石垣を残すのみである。
採掘されていたのは、菱マンガン鉱、紅簾石、マンガンかんらん石(紅色)、ハウスマン鉱、ブラウン鉱(黒・チャ色)緑泥石(緑)等であった。マンガン鉱は、紅色を示すものが多く、次にそれが酸化されて二酸化マンガン(黒色)になったものが多いそうである。坑道でフラッシュ撮影すると鮮やかな紅色に岩壁が浮かびあがる。ハウスマン鉱は、二酸化マンガンが主成分なのでオキシフルをかけると酸素を発生し発泡する。菱マンガン鉱は、主成分が炭酸マンガンなので希塩酸をかけると炭酸ガスをだして発泡するが、持ち帰ったレンガ色の岩石は、一部分しか発泡しないのでどうやら紅簾石のようだ。これらの鉱石は、坑道に入らなくても、新道とセドノ沢合流点付近から上流を探せばいくらでもある。鉄にマンガンを加えると鉄が強くなり、兵器の製造には欠かせない鉱物であったため戦時中は、低品位にもかかわらず採掘されていた。しかし、低品位のため戦後しばらくは、採掘が続いたが鉱物の自由化が行なわれたため急速に競争力がなくなり閉山した模様だ。
さて新道は、木ノ又尾根から離れ、セドノ沢に出合う。この大日鉱山、現在も新道途中のセドノ沢左股枝沢 白竜ノ滝上部を辿ったところに坑道があり、穴から清水がコンコンと湧き出ている。最近調べたおり、このほかにも周辺に3箇所坑道が確認できている。しかし、ガレ場の上にあるので近づくのは危険だ。
以前 渋谷書策さんを小屋に訪ねたおり、採掘されていたマンガン鉱の塊を見せてもらった。ずっしりと重い磁石に付く黒い鉱石であった。書策さんは、磁石に付くことがマンガン鉱の特徴だと言っていた。マンガン自体は、磁石が付かないので多分、鉄分が混ざったヤコブス鉱、もしくは緑泥石で、表面が酸化されため黒色になっているものと思われる。書策さんが言われるのには、この坑道から流れ出る水で素麺(うどん?)を茹でると、とても美味しいそうだ。この大日鉱山、ちょうど新道がセドノ沢に合流する付近に飯場などもあった。現在は、飯場跡の石垣を残すのみである。
採掘されていたのは、菱マンガン鉱、紅簾石、マンガンかんらん石(紅色)、ハウスマン鉱、ブラウン鉱(黒・チャ色)緑泥石(緑)等であった。マンガン鉱は、紅色を示すものが多く、次にそれが酸化されて二酸化マンガン(黒色)になったものが多いそうである。坑道でフラッシュ撮影すると鮮やかな紅色に岩壁が浮かびあがる。ハウスマン鉱は、二酸化マンガンが主成分なのでオキシフルをかけると酸素を発生し発泡する。菱マンガン鉱は、主成分が炭酸マンガンなので希塩酸をかけると炭酸ガスをだして発泡するが、持ち帰ったレンガ色の岩石は、一部分しか発泡しないのでどうやら紅簾石のようだ。これらの鉱石は、坑道に入らなくても、新道とセドノ沢合流点付近から上流を探せばいくらでもある。鉄にマンガンを加えると鉄が強くなり、兵器の製造には欠かせない鉱物であったため戦時中は、低品位にもかかわらず採掘されていた。しかし、低品位のため戦後しばらくは、採掘が続いたが鉱物の自由化が行なわれたため急速に競争力がなくなり閉山した模様だ。
関東地方には、多くのマンガン鉱床がありその総数は300をこえる。丹沢のマンガン鉱は、第3紀層の層状マンガン鉱床といわれるもので、この大日鉱山以外にも、あと2箇所マンガン鉱山があった。マンガン鉱の用途は、鉄合金用以外には、肥料(葉緑素の形成、光合成過程、酸化還元などの酵素の賦活剤、ビタミンCの合成などに関与する。)釉薬、着色剤(瓦・土管)などがある。このセドノ沢 マンガン鉱山以外にも米軍機が墜落した場所が、書策小屋の水場上部の沢筋にあったそうだ。(付図参照)
参考文献
川崎吉蔵編,1952:丹澤の山と渓 背戸の澤,山と渓谷社
工業技術院地質調査所編,1954:日本鉱産誌1-c, 工業技術院地質調査所
羽賀正太郎,1967:アルパインガイド23 丹沢:水無川本谷と大倉尾根,山と渓谷社
森慎一ら,自然と文化No.7 1-18、1984 神奈川県内産の鉱物,平塚市立博物館
加藤昭ら,神奈川自然史誌資料(17)95-107、1996神奈川県産鉱物目録,神奈川県立生命の星・地球博物館
東京鉱山監督局管内 鉱区一覧(明治44~大正15年、昭和2~16、24、28年)
大日本帝国陸地測量部,明治25年出版:塔嶽 2万分の1
解説 鉱区一覧
各鉱山監督局が作った試掘、採掘の登録番号、登録日、鉱種、登録者、鉱区の場所・面積などが記載された一覧表が載った本。東京鉱山監督局のものは、鉱山法が施行された明治44年から昭和16、24、28年(大正12年は関東大震災のため発行はない)が国会図書館で閲覧できる。登録番号は、明治44年からの通し番号が付与され、年度ごとの鉱区一覧では、その年に登録された登録番号と前年くらいまでの登録番号が書かれている。鉱区の場所は、例えば大日鉱山では、「北秦野・南秦野」と記載されており町村名しか判らない。(場所の特定は無理)試掘、採掘は、権利を引き継いで行なうことが多いので鉱区の場所と面積の大きさが同じであれば、引継されたと推定できる。大日鉱山は、日本鉱産誌に記載された採掘者「堀井」から登録番号・鉱区を推定した。
次回3.「丹沢だより」の記事から
参考文献
川崎吉蔵編,1952:丹澤の山と渓 背戸の澤,山と渓谷社
工業技術院地質調査所編,1954:日本鉱産誌1-c, 工業技術院地質調査所
羽賀正太郎,1967:アルパインガイド23 丹沢:水無川本谷と大倉尾根,山と渓谷社
森慎一ら,自然と文化No.7 1-18、1984 神奈川県内産の鉱物,平塚市立博物館
加藤昭ら,神奈川自然史誌資料(17)95-107、1996神奈川県産鉱物目録,神奈川県立生命の星・地球博物館
東京鉱山監督局管内 鉱区一覧(明治44~大正15年、昭和2~16、24、28年)
大日本帝国陸地測量部,明治25年出版:塔嶽 2万分の1
解説 鉱区一覧
各鉱山監督局が作った試掘、採掘の登録番号、登録日、鉱種、登録者、鉱区の場所・面積などが記載された一覧表が載った本。東京鉱山監督局のものは、鉱山法が施行された明治44年から昭和16、24、28年(大正12年は関東大震災のため発行はない)が国会図書館で閲覧できる。登録番号は、明治44年からの通し番号が付与され、年度ごとの鉱区一覧では、その年に登録された登録番号と前年くらいまでの登録番号が書かれている。鉱区の場所は、例えば大日鉱山では、「北秦野・南秦野」と記載されており町村名しか判らない。(場所の特定は無理)試掘、採掘は、権利を引き継いで行なうことが多いので鉱区の場所と面積の大きさが同じであれば、引継されたと推定できる。大日鉱山は、日本鉱産誌に記載された採掘者「堀井」から登録番号・鉱区を推定した。
次回3.「丹沢だより」の記事から
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