丹沢の鉱山跡を探る  17  丹沢だより442号 2007/6( 金山澤鉱山)

丹沢の鉱山跡を探る 17  


                             

金山澤 第一坑口
           


9.金山澤鉱山(ここだよ!と呼ぶ声が聞こえる)

 この連載を始めてから、しばらく経って奥野幸道氏から叱咤激励のお手紙を戴き、止むに止まれなくなりました。今回 世附流域を調べる旨、お知らせしたら重要なキーが記載された文献を戴きました。この項は、その文献によって糸口がほぐれたものです。その文献とは、山と渓谷64号 昭和15年p114清水長輝 丹澤・菰釣山附近です。以下引用 鑛山跡 山神峰の下で分岐して水ノ木へ下る山伏徑路は、すぐ下で親不知と云はれる危い棧道になるので、近時菰釣寄りの尾根を少し迂回するやうにつけられた。徑路を僅か下ると次の一二二〇米圏峰との鞍部は大楢と呼ばれて、今は炭焼がはいつてゐる。恰度ここから眞西にあたって金山澤の一一〇〇米あたりに坑の跡があるらしい。徳川中期頃から銅を堀つたやうで、明治中頃までは澤に面して石臼の残骸が列んでゐたさうだ。日露戦争の頃鐵板や何かかつぎ出して賣つたと云う話も残ってゐる。 引用終わり どうやら これは金山澤鉱山らしい……

「金山澤鉱山」浅瀬入口から徒歩5時間30分 場所:金山沢沖ビリ沢付近の支流 

 国会図書館の近代デジタルライブラリーで「鉱区」で検索すると明治44年1月1日発行東京鉱山監督署管内鉱区一覧の内容がWebから読める。神奈川県丹沢での採掘場所は、世附・金山沢で鉱山名は金山澤鉱山であった。鉱種は銀と銅で登録されており、試掘では無く本格的に採掘された鉱山であった。登録者は長田勝光氏で明治44年から大正6年まで登録されている。明治44年以前の鉱区一覧は見つけることができなかったが、それ以前から採掘されていたようだ。これについては後で述べる。また長田氏は、南都留郡在住なので山梨県側からの入山であろう。場所は、地名から察すると水ノ木から入る金山沢に違いない。
 奥野氏から戴いた文献もこの辺りを示唆している。この鉱山は、日本鉱産誌や平塚博物館「自然と文化」には書かれていない鉱山であった。別の資料では、水の木休泊所より山伏峠へ約1.5km金山沢を遡行し右岸に硫化鉄鉱を含む千枚岩質粘板岩の露頭があるとのこと。硫化鉄鉱があると言うことは「焼け」があることを示す。神奈川県自然環境保全センターが発行している丹沢大山国定公園の公園区域地図では金山沢は、この露頭がある中流部を指しており上流部は、山伏沢と名を変えている。金山沢の言われは、この露頭から来たものなのか?

 この金山沢 登山地図では、沖ビリ沢、ビリ沢と言う名の沢が合流している。このビリと言う名。鉱山用語では、細かい鉱石が分布する帯のことを言う。玄倉川上流のオガラ沢には、このビリ状の黄鉄鉱の帯が粘土中に分布するところを見ることができる。ビリが付くと言うことは鉱物があるに違いない。佐藤氏の「山の神の民俗と信仰」第三部山神と山岳移動者 (三)丹沢 木地師の足跡を訪ねて によると以下引用 水の木沢支流に「金山沢」があり、金または鉄を採取したと言う。石歩土(ホト、古語で女陰を示し、谷有二氏によれば金山の近くには女陰を祀ったと言う。)から流れる沢に西側から「ビリ沢」が流れ込んでいる。 引用終わり 佐藤氏は「ビリ」について木地師の使う波挽との考察であったが、鉱山用語の「ビリ」と考えたほうが周辺の状態を考えれば納得が付くのでは無いか?鉄を採取したと言うのは「焼け=鉄錆び色」の兆候があるからであろう。菰釣橋を越えた辺りから川床は、褐色の着色が見られる。これは中流部分にある硫化鉄鉱を含む千枚岩質粘板岩の露頭(焼けの状況)の影響と思われる。樅ノ木沢出合付近の新しい堰堤の上からは、川床の着色は見られない。この周辺のどこかにビリ沢が流れ込んでいるはずである。しかし、菰釣橋から直接沢を遡行してないので露頭(金属鉱床)があるかどうかは確認していない。

 中野氏によると以下引用 丹沢山中に採金の伝説のところが他にも多々あって、世附の更の奥地の水ノ木付近の金山沢の渓流に添うて金鉱発掘の古窟あることを聞かされたこともあり 引用終わり とあるので、やはりこの付近にはあるらしい。沖ビリ沢かビリ沢か?さらに雑誌「山小屋」昭和9年 丹沢の山と谷,岩崎京二郎氏の「菰釣山に登る」には金山沢には鉱物を掘り出している。菰釣山から西 金山沢ノ頭(サカサオーイ 道志側呼称)1297m(現在の標高から推定すると石保土山が該当がする)とある。そうなると金山沢の源流は、現沖ビリ沢ではなく、金山沢の北西方向の支流が金山沢源流となる。沖ビリ沢と金山沢は同一の沢を指すのか違うのか?昭和15年 坂本光雄編「丹澤の谷歩き」には金山澤の項目に、以下引用 軈て魚留の滝に着く。現在は堰堤が築造されたので、昔の姿は全くなく、洵に殺風景になって了つた。ここで澤は二つに岐れ、石歩戸山一二九七・三米の東寄りに喰ひ入る枝澤で、國境線へは抜けられるが、完全な踏跡は無い。左は本谷で沖ビリ澤と稱され、澤奥には金山澤の澤名の起こりとなった、金鐄跡がある。 引用終わり ここでは沖ビリ沢が本谷らしい。そして「金鐄跡」の文言も!はたして金山澤鉱山は、沖ビリ沢、ビリ沢、金山沢中流、それとも金山沢ノ頭周辺のどこかにあるのだろうか?

 清水氏の文献にある「石臼」これもプロローグで述べたが鉱山跡を示す指標の一つである。鉱石を細かくするために石臼を使用することがあり、粉砕した鉱石を「ねこ流し」などの比重を使った選鉱方法で目的とする鉱物を取り出していた。現に信玄が採掘したと言われている黒川金山では、沢沿いに石臼が放置されているそうだ。

 今回は、清水、坂本両氏の書かれた内容を参考に、高度1100m付近、沖ビリ沢方面、石臼を目標として探す目論見を立てた。特に清水氏の内容は、見出しがわざわざ「鉱山跡」と別項で書かれているので重要であると考えた。

 さて探索を含め、金山沢に向かって、また浅瀬まで戻るのは時間が掛かるため、山中湖に抜ける計画にした。Webで調べると山伏峠に車を置いて大棚ノ頭と西丸の鞍部から金山沢(沖ビリ沢)に下り、水ノ木沢を遡行する計画が多くある。しかし浅瀬から歩いて金山沢(沖ビリ沢)へアプローチするのは、やはりアプローチの長さから敬遠されているようだ。車が無いと、どうもできないようだが丹沢湖畔に落合館という旅館がある。この旅館を活用することにより2日間を有効に使える計画が立てられる。
 前回、前々回を含め今回で「丹沢の鉱山跡を探る」連載の取材も終わりとなる。一挙に進めてしまおう!との目論見で実行に移した。たったあれだけの情報で金山澤鉱山がそんなに簡単に見つかるか?とお思いのふしもあるだろうが、今回は絶対見つかると思った。世附の山神様にもお願いしたし、なんだか、また呼ぶ声が聞こえる。「こっちだよー こっちだよー」これで最後なのできっと山神様もサービスしてくれるだろう。

 鎌田鉱山・山北鉱山を見つけ気分良く落合館に投宿した。明日に備え、早めに床についたが夜中に何かの夢を見て(恐い夢では無かったが)胸元を触るとぐっしょり寝汗をかいている。夢うつつに部屋も寒いのになぜ寝汗 風邪か?と思ったがそのまま又寝入ってしまった。5時に落合館を出発、天候は晴れ。心は「陽氣發処、金石亦透。精神一到、何事不成」 鎌田鉱山跡を飛ぶように過ぎ金山沢林道終点には9時に着いた。山伏経路を示す板切れを過ぎ、最初の分岐のナメは、なんと部分氷結している。ナメで有名な金山沢・沖ビリ沢は、氷の滑り台と化していた。前日ミゾレが降っていたので危惧していたが、実際に目の当りにすると躊躇する。しかし氷結してない部分を選んで歩けば何とか行けそうである。途中滑ったら深い釜に「ドブン!」という場所もあったが何とか遡行して行ける。金山沢・沖ビリ沢は玄倉・東沢と経角沢にナメが連続している感じで、新緑のころはきれいだろう。また訪れてみたい場所の一つになった。
                             

金山澤 第一坑道内部


金山澤 第二坑口

金山澤第二坑道内部から


金山澤第二坑道内部
                              
 さて呼ばれる声に従い分岐を選び、途中テラスや、すり鉢状の場所を探索しながら進んだが、肝心の石臼の残骸は発見できなかった。目標の1100m付近に近づくと「ここだよ こっちだよ」の声が聞こえる。鉱山に近づくと、ある種のゾクゾク感がする。ある枝沢に入り進むと、それに逢った。大きなガマ口のような坑口。土砂で入口は30cmくらいしか開いてない。覗いても奥は深く、何も見えない。頭を突っ込もうとしたが無理であった。デジカメを差し入れフラッシュで撮ると奥には坑道が続いていた。落盤の跡も無く健在である。関東大震災にもこの坑道は耐えたのか?不思議な気がする。いつもの儀式でお神酒と塩を供えた。周囲にはテラスらしきものもあったが、石臼の残骸は見つけられなかった。
 ふと気がつくとまだゾクゾク感がある。べつの枝沢を辿ると、また逢った。こちらは坑道内部に入ることができたが長さが5mで行き止まりであった。周辺の岩石を調べると黄鉄鉱らしき金属光沢がある細片が付いた鉱石がある。どうやら石英(水晶?)が晶析しているのでペグマタイト系の鉱脈があるようだ。表に出てその鉱石を詳細に調べると金の輝きでは無く、いぶし銀のような光沢を持っている。結晶系から察すると黄鉄鉱でも黄銅鉱でも無い。もろく潰そうとすると劈開する。銀が含まれているのだろうか?金山澤鉱山では銅、銀が採掘されていたので、まさしくこの周辺が金山澤鉱山であろう。

 本流に戻り、山中湖に向かって稜線を目指した。Webで調べた遡行(下り)記録では、稜線からスタスタと沢に下りられるようだが、なかなかの急角度で稜線に突き上げている。目標稜線の高度まで達しているのに、なかなか稜線が見えてこない。最後は、岩溝登りにようになりやっとのこと、上がって稜線に出た途端?考えていた風景が違う。現在地点消失。稜線には立派な登山道があり、本来なら西丸と大棚ノ頭の鞍部に上がるはずだっが富士山が見えない。どうやら枝沢を詰めたようだ。道理で赤テープも無く、やけにきれいな沢だな!と思った。コンパスを出して確認すると、なんと上り詰めたのは、大棚ノ頭(山神峯)と石歩土山の間の稜線であった。何の疑いも無く、てっきり沖ビリ沢を詰めているものと思い込んでいた。山神様は意地悪である。最後にビックリを残してくれた。
 もし途中で地図とコンパスを見ていたら、忠実に沖ビリ沢を遡行することになり、鉱山跡には辿り着けなかったであろう。呼び声の赴くままに導いて戴けた山神様の威力は凄い。不思議な気持ちである。石歩土山側に引き込まれたのも、佐藤氏が言うところの鉱山と歩土の関係があるからだろうか?途中 石保土の名の謂れのような岩溝があり、真中から水がひょんぐっている場所があった。大棚ノ頭は、別名山神峯ともある。玄倉の山神峠の近くにも鉱山があったので、鉱山と山神様の関係は強固なもののようだ。

 この金山澤鉱山。昭和27年発行のガイド本「丹沢の山と渓」 丹澤の史跡と伝承の中野敬次郎氏「戦国大活劇の舞台」によると以下引用 鉱物の採掘も行なわれたらしい。鉱物の採掘は重に西丹澤の地帯にあって、世附川の一支流にある金山澤は、北條時代に金鉱を採掘した處から名が生じたと言われておるし、現に、世附川の上流には金鐄採掘の古い廃坑が二三発見されている。 引用終わり この鉱山 武田氏が採掘したのでは無く北條氏が採掘した鉱山のようである。しかしこの地域。一山越えれば武田領なので信玄の隠し金山かもしれない。どちらかと言えば金山澤鉱山が信玄系で、玄倉・東沢の丹沢鉱山が北條系のような気がする。(玄倉周辺には北條氏の山城が点在している)帰ってから地図を詳細に調べたが、今となっては沖ビリ沢の、どの枝沢か判らない。稜線から辿れば判るが、それにはザイルが必要となる。

謝辞 この項を書くにあたり、奥野幸道氏から貴重な文献を戴きました。この文献が無かったら金山澤鉱山の目星は付かなかったでしょう。ありがとうございます。

次回10 エピローグ

参考文献(9)順不同

東京鉱山監督局管内 鉱区一覧(明治44~大正15年、昭和2~16、24、28、32、36、39、42、45年)


清水長輝,1940:山と渓谷64号,114-117,丹澤・菰釣山附近,山と渓谷社


中野敬次郎,1982:かながわ風土記58号,39-45,箱根丹沢秘伝帖(11)北条氏と丹沢資源,丸井図書出版


岩崎京二郎,1934:山小屋,32巻9号,110-114,朋文堂


佐藤芝明,1987:丹沢・桂秋山域の山の神々,丸の内出版


坂本光雄編,1940:丹澤の谷歩き,体育評論社


佐藤芝明,1990:山の神の民俗と信仰 丹沢・桂川・足柄,丸の内出版


川崎吉蔵編,1952:丹澤の山と渓,山と渓谷社


今村啓爾,1997:戦国金山伝説を掘る,平凡社


Web


国立国会図書館,近代デジタルライブラリー,東京鉱山監督署管内鉱区一覧 明治44年


 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=41019784&VOL_NUM=00000&KOMA=54&ITYPE=0

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