丹沢の鉱山跡を探る 15 丹沢だより440号 2007/4(山北鉱山)
丹沢の鉱山跡を探る 15 丹沢だより440号 2007/4
山北鉱山内部(露天掘りに近い)
これから続く、三連載は2007年3月17~18日世附地区を探索した時の記録である。奥野幸道氏から紹介された文献及び「丹沢今昔」、佐藤芝明氏の三部作により鉱山跡を探る糸口を見つけることができた。その鉱山とは、山北鉱山、鎌田鉱山、金山澤鉱山である。
7.山北鉱山
「山北鉱山」浅瀬入口から徒歩2時間30分 場所:広河原付近
資料によると、世附の奥 広河原の浅瀬刑務所付近に鉱物の露頭があるとのこと。どうやら、その場所が山北鉱山らしい。目標は、浅瀬刑務所だが丹沢に刑務所があったことなど聞いたことも無く、またこの情報には、浅瀬と広河原の両地名の混同もある。そして山北町史なども調べてみたが、書かれていなかったので、初めは間違いだろうと思っていた。しかし丹沢の今昔と言えば「丹沢今昔」。早速調べると、「丹沢今昔」余話になんと受刑者が炭焼きを行なっていたことが書かれていた。実際は刑務所では無く、構外作業のための三保製炭作業所が置かれていた。以下引用 昭和20年9月初め、横浜刑務所拘置監は戦犯等収容のため連合軍に接収され……過剰拘禁の解消、不就労者の解消、食料・生活資材の自給等を目的とする構外作業が積極的に行なわれ、当初においても昭和20年代始めから、泊込三箇所(箱根農場、三保製炭作業所、浦賀漁労隊)、通役一箇所の構外作業に受刑者を従事させた。 引用終わり。奥野氏は、「丹沢今昔」の取材で世附川を遡ったおり、この作業所跡を探したが、悪沢付近ではないか?との見当をつけたのに留まった。現在 悪沢出合には廃屋(三保山荘)がある。
世の中には、色々な図書館がある。犯罪者・非行少年の処遇や、犯罪の予防に関わる分野を中心にした、刑事政策・矯正に関しての専門図書館(矯正図書館)を見つけた。Webから検索することも可能で、奥野氏が参照された横浜刑務所落成記念誌も所蔵されていた。さらに検索をかけると竣工50年史が見つかった。早速調べてみると、以下引用 横浜刑務所の構外作業 昭和22年4月10日現在で箱根農場に41人、三保製炭作業所に42人…中略 泊込作業人員が就業している。中略 三保製炭作業所は足柄上郡三保村に製炭作業のため、場長以下7人の職員で昭和21年から昭和30年12月まで、中略 作業調定の確保及び自給用燃料・食糧等の確保に役立っていた。 引用終わり 場所はどこだったのだろう?この50年史には職員の思い出が載っており、そこには三保製炭作業所のことが書かれていた。看守拝命時の横浜(小倉氏)以下引用 昭和28年8月三保製炭作業所勤務を命ぜられました。現在の丹沢湖の湖底に村があり、その先は営林署専用の軌道が川に沿ってあり、吊橋を渡って山小屋のような宿舎、物置かと思う舎房、電気なしのランプ生活でした。 引用終わり。これらによって森林軌道と吊橋が明らかになった。
山北鉱山抗口
これから続く、三連載は2007年3月17~18日世附地区を探索した時の記録である。奥野幸道氏から紹介された文献及び「丹沢今昔」、佐藤芝明氏の三部作により鉱山跡を探る糸口を見つけることができた。その鉱山とは、山北鉱山、鎌田鉱山、金山澤鉱山である。
7.山北鉱山
「山北鉱山」浅瀬入口から徒歩2時間30分 場所:広河原付近
資料によると、世附の奥 広河原の浅瀬刑務所付近に鉱物の露頭があるとのこと。どうやら、その場所が山北鉱山らしい。目標は、浅瀬刑務所だが丹沢に刑務所があったことなど聞いたことも無く、またこの情報には、浅瀬と広河原の両地名の混同もある。そして山北町史なども調べてみたが、書かれていなかったので、初めは間違いだろうと思っていた。しかし丹沢の今昔と言えば「丹沢今昔」。早速調べると、「丹沢今昔」余話になんと受刑者が炭焼きを行なっていたことが書かれていた。実際は刑務所では無く、構外作業のための三保製炭作業所が置かれていた。以下引用 昭和20年9月初め、横浜刑務所拘置監は戦犯等収容のため連合軍に接収され……過剰拘禁の解消、不就労者の解消、食料・生活資材の自給等を目的とする構外作業が積極的に行なわれ、当初においても昭和20年代始めから、泊込三箇所(箱根農場、三保製炭作業所、浦賀漁労隊)、通役一箇所の構外作業に受刑者を従事させた。 引用終わり。奥野氏は、「丹沢今昔」の取材で世附川を遡ったおり、この作業所跡を探したが、悪沢付近ではないか?との見当をつけたのに留まった。現在 悪沢出合には廃屋(三保山荘)がある。
世の中には、色々な図書館がある。犯罪者・非行少年の処遇や、犯罪の予防に関わる分野を中心にした、刑事政策・矯正に関しての専門図書館(矯正図書館)を見つけた。Webから検索することも可能で、奥野氏が参照された横浜刑務所落成記念誌も所蔵されていた。さらに検索をかけると竣工50年史が見つかった。早速調べてみると、以下引用 横浜刑務所の構外作業 昭和22年4月10日現在で箱根農場に41人、三保製炭作業所に42人…中略 泊込作業人員が就業している。中略 三保製炭作業所は足柄上郡三保村に製炭作業のため、場長以下7人の職員で昭和21年から昭和30年12月まで、中略 作業調定の確保及び自給用燃料・食糧等の確保に役立っていた。 引用終わり 場所はどこだったのだろう?この50年史には職員の思い出が載っており、そこには三保製炭作業所のことが書かれていた。看守拝命時の横浜(小倉氏)以下引用 昭和28年8月三保製炭作業所勤務を命ぜられました。現在の丹沢湖の湖底に村があり、その先は営林署専用の軌道が川に沿ってあり、吊橋を渡って山小屋のような宿舎、物置かと思う舎房、電気なしのランプ生活でした。 引用終わり。これらによって森林軌道と吊橋が明らかになった。
昭和31年国土地理院発行の地図駿河小山二万五千分の一では広河原、悪沢に橋があり広河原の手前に森林鉄道のスイッチバックがある。広河原付近の左岸には森林鉄道が走っているが、右岸にも、徒歩の経路があった。昭和31年出版の丹沢山塊‐登山地図帳‐の奥野氏が書かれた記事「世附峠から不老山」には広河原には、無数の炭焼小屋があり、軌道の下には営林署の小屋もある。とあることから広河原での製炭は確実に行なわれていたようだ。
あとは探しに行くだけである。はたして見つかるだろうか!これとは別に「かながわ風土記」に中野氏の記事も見つけてしまった。以下引用 太平洋戦争の直後に小田原少年院の分院が丹沢山中に一時置かれたことがあった。場所は西丹沢の世附奥の悪沢で、例の後醍醐天皇の御陵があるといって騒がれた中略この奥の叢林中に鉱窟のあること、そして院を逃亡した少年がこの洞穴に一週間余りも隠れたいたことなど聞かされたが、北条時代の金鉱ではないかとの話であった 引用終わり。これによると実は、悪沢にも小田原少年院(小田原少年刑務所)分院があった。そして坑道もあったようだ。佐藤芝明氏の「現代に活きる山の神伝承」、西丹沢の山の神と菊花紋伝説の項には、悪沢の炭焼窯は、「囚人小屋の平」と関係ある窯である。とある。囚人すなわち受刑者とすれば、悪沢付近も捜す必要がある。はたして悪沢、広河原どちらに鉱山はあったのだろう?この悪沢付近 山神峠の山神様と菊花紋伝説がむすびついた財宝伝説と、みささぎ伝説があるそうで、大正初期から昭和にかけて西丹沢に発掘ブームが起こったそうである。当初は、大野山周辺で発掘は行なわれていたようだが、その後財宝とみささぎ伝説は、世附川流域にある芦沢付近から山神峠の山神様付近(菊花紋伝説)に移り、この周辺で発掘が多数行なわれたようだ。このため鉱山ではないが、財宝発掘のための横穴があるそうである。詳細は引用文献を参照してほしい。
さ て、いつも引用する日本鉱産誌では、広河原のようだ。日本鉱産誌によると山北鉱山は、山北町世附川の広河原にあり、丹沢層群の凝灰岩、流紋岩、輝石安山岩中の鉱脈で黄銅鉱(最高品位Cu6~15%)、黄鉄鉱、石英よりなる露頭で鉱山主は亀井氏であった。どうやら坑道は無く、露頭のみのようだ。鉱区一覧より亀井氏で該当鉱山を探してみると、初出は昭和19年試掘登録226号、その後昭和24年267号、昭和27年299、300、301号、昭和29年354号と登録が行なわれていた。鉱種は金、銀、銅、硫化鉄で登録されており、周辺の鉱山(鎌田鉱山)と同様な鉱物であった。
今回は、2日掛かりの探索である。昔 落合橋にあった落合館は、現在丹沢湖の記念館前で同名の旅館を経営している。今回の山北鉱山、次回投稿予定の鎌田鉱山と金山澤鉱山、は、ともに浅瀬の奥にあり、車がないとアプローチに時間が掛かり探索の時間が取れない。そのため近くの旅館に宿泊した。こうも入れ込むのは訳があり、実は奥野幸道氏から、手紙を戴き金山澤鉱山の示唆を受けたからである。初日は、朝からミゾレ降る最悪のコンディション。浅瀬入口で始発バスを降り最高の音響装置であるとシュトルテ氏から折り紙をつけられたトンネルで、これからの探索を祈りヤッホーの大声を張り上げ感触を楽しんだ。
世附川方面の山神沢を下り林道にぶつかる。水ノ木まで行って見たが林道周辺には鉱山・鉱物がある兆候は無い。さてこの山神沢出合付近から東電の水路監視小屋のある辺りまでは、「焼け」の兆候が大いに見られた。これについては次回(鎌田鉱山)のお楽しみ。
さて林道を下り土沢の出合の吊橋を渡り、上流部分の探索に入った。水量も多くなく飛び石伝いに川を遡行できる。途中吊橋1本と水路サイフォン橋を頭上に過した。両岸は、林道沿いの「焼け」の兆候がある岩石の延長で所々「焼け」は認めるが、とても露頭とは言えない。そうこうするうちに水ノ木取水堰に着いてしまった。巡視路を通り林道へ、また土沢出合に戻った。今度は下流部分の探索である。資料によると世附川右岸にあると言う。丹念に右岸を探すと「焼け」の強い分が出てきて、錆び水の湧水地点もある。
広河原にある森林鉄道スイッチバックの遺構
スイッチバックの森林軌道
あとは探しに行くだけである。はたして見つかるだろうか!これとは別に「かながわ風土記」に中野氏の記事も見つけてしまった。以下引用 太平洋戦争の直後に小田原少年院の分院が丹沢山中に一時置かれたことがあった。場所は西丹沢の世附奥の悪沢で、例の後醍醐天皇の御陵があるといって騒がれた中略この奥の叢林中に鉱窟のあること、そして院を逃亡した少年がこの洞穴に一週間余りも隠れたいたことなど聞かされたが、北条時代の金鉱ではないかとの話であった 引用終わり。これによると実は、悪沢にも小田原少年院(小田原少年刑務所)分院があった。そして坑道もあったようだ。佐藤芝明氏の「現代に活きる山の神伝承」、西丹沢の山の神と菊花紋伝説の項には、悪沢の炭焼窯は、「囚人小屋の平」と関係ある窯である。とある。囚人すなわち受刑者とすれば、悪沢付近も捜す必要がある。はたして悪沢、広河原どちらに鉱山はあったのだろう?この悪沢付近 山神峠の山神様と菊花紋伝説がむすびついた財宝伝説と、みささぎ伝説があるそうで、大正初期から昭和にかけて西丹沢に発掘ブームが起こったそうである。当初は、大野山周辺で発掘は行なわれていたようだが、その後財宝とみささぎ伝説は、世附川流域にある芦沢付近から山神峠の山神様付近(菊花紋伝説)に移り、この周辺で発掘が多数行なわれたようだ。このため鉱山ではないが、財宝発掘のための横穴があるそうである。詳細は引用文献を参照してほしい。
さ て、いつも引用する日本鉱産誌では、広河原のようだ。日本鉱産誌によると山北鉱山は、山北町世附川の広河原にあり、丹沢層群の凝灰岩、流紋岩、輝石安山岩中の鉱脈で黄銅鉱(最高品位Cu6~15%)、黄鉄鉱、石英よりなる露頭で鉱山主は亀井氏であった。どうやら坑道は無く、露頭のみのようだ。鉱区一覧より亀井氏で該当鉱山を探してみると、初出は昭和19年試掘登録226号、その後昭和24年267号、昭和27年299、300、301号、昭和29年354号と登録が行なわれていた。鉱種は金、銀、銅、硫化鉄で登録されており、周辺の鉱山(鎌田鉱山)と同様な鉱物であった。
今回は、2日掛かりの探索である。昔 落合橋にあった落合館は、現在丹沢湖の記念館前で同名の旅館を経営している。今回の山北鉱山、次回投稿予定の鎌田鉱山と金山澤鉱山、は、ともに浅瀬の奥にあり、車がないとアプローチに時間が掛かり探索の時間が取れない。そのため近くの旅館に宿泊した。こうも入れ込むのは訳があり、実は奥野幸道氏から、手紙を戴き金山澤鉱山の示唆を受けたからである。初日は、朝からミゾレ降る最悪のコンディション。浅瀬入口で始発バスを降り最高の音響装置であるとシュトルテ氏から折り紙をつけられたトンネルで、これからの探索を祈りヤッホーの大声を張り上げ感触を楽しんだ。
悪沢 林道より廃屋内部
先ずは、悪沢周辺の探索。地質をみても川の岩石を見ても鉱山があるとは思われない。吊橋を渡った先にある廃屋(三保山荘)は、とても少年院の分院とは思えず、内部は普通の家の造り。しかし林道側にある廃屋は、廊下の両脇に4畳半くらいの部屋が並び、普通ならば窓がある部分に押入れ。そしてその下に小さな窓がある特殊な造り。どちらかと言えば、こちらのほうが合宿所のような造りであった。三保山荘の裏から直接稜線を経て山神峠の山神様へ向かった。山神峠の悪沢に繋がる沢は山神沢であるが、その反対側の沢も実は山神沢と呼ばれている。この山神様 佐藤氏の「山の神の民俗と信仰」第七部山神の雑記(四)山の神と金属精錬によると以下引用 鉱山に山神が祀られることは一般的に容認されているが、この実例として、西丹沢世附川上流の「山神沢の山神」が挙げられる。山神社の裏手に当るところに「金鉱の坑」があり、現在でも坑口が残っている。この山神は金鉱を掘るより遥か昔から祀られていたが、奥にある金山沢・石保戸山への入口(峠)と見ることができる。 引用終わり 石保土山と金山沢にある鉱山の守り神として祭られているとのことなので、念入りに明日の金山澤鉱山探索のことを頼んでみた。またこの引用の中にもう一つの鉱山の場所が示されている。実はこれが鎌田鉱山なのである。(裏手と言うと直ぐ裏を想像するが、実際は裏手方面と言ったほうがよい)山神峠の山神様
世附川方面の山神沢を下り林道にぶつかる。水ノ木まで行って見たが林道周辺には鉱山・鉱物がある兆候は無い。さてこの山神沢出合付近から東電の水路監視小屋のある辺りまでは、「焼け」の兆候が大いに見られた。これについては次回(鎌田鉱山)のお楽しみ。
さて林道を下り土沢の出合の吊橋を渡り、上流部分の探索に入った。水量も多くなく飛び石伝いに川を遡行できる。途中吊橋1本と水路サイフォン橋を頭上に過した。両岸は、林道沿いの「焼け」の兆候がある岩石の延長で所々「焼け」は認めるが、とても露頭とは言えない。そうこうするうちに水ノ木取水堰に着いてしまった。巡視路を通り林道へ、また土沢出合に戻った。今度は下流部分の探索である。資料によると世附川右岸にあると言う。丹念に右岸を探すと「焼け」の強い分が出てきて、錆び水の湧水地点もある。
さらに下流に進むと、山北鉱山はポッカリ口を開けていた。露天掘で鉱脈を掘り進んだようである。川沿いなので水流が穿った穴かと思ったが、内部の表面が鑿で削ったようにゴツゴツしており、緑色凝灰岩との接触部の鉱脈なので、ここが山北鉱山と言ってよいだろう。残念ながら「焼け」が多い岩石しか見つからず、黄銅鉱も黄鉄鉱も見られなかった。冒頭資料にあった浅瀬刑務所は、広河原にあった三保製炭所のことを指すと見てよい。類推すると奥野氏が探していた三保製炭所は広河原にあったことになる。悪沢の鉱窟と言われているものは、財宝探しの穴だったようだ。
山北鉱山を見つけた満足感からちょっと一休みして対岸の岩壁をボンヤリ眺めていたら、なにやら石垣がある。ひょっとしたら岡澤氏の「誰も知らない丹沢」に出てくる森林鉄道の幻のスイッチバック?と思い探索を開始。石垣の上を行ったり来たり。すると通信線の電柱もあり、どうやらこの石垣がスイッチバックの起点で、現在の林道地点(終点)まで森林鉄道が登っていたようだ。さらに川を下ると石垣は川沿いの左岸を約2.5mの高さで下流に向かっており、現在の地図上(465m)、崖記号の部分でその先は失われていた。現在の林道は、山百合橋を越えて最初の堰堤の部分から高度を上げて広河原に達している。ところが森林鉄道はもっと川沿いにあったことが、昭和31年発行の地図には描かれている。あの堰堤 森林鉄道が活躍していたころは、存在していなかった。堰堤のために、だいぶ川床が上がり、また堰堤工事のため軌道敷が失われたようだ。堰堤からまた林道に上がり上流部に行くと、ちょうど現林道の広河原橋が川から上がってきた森林鉄道の、最後のスイッチバックになるようで橋台の受けの跡がある。
つづく
次回8.鎌田鉱山(丹沢で唯一の金の産出)
参考文献(7)順不同
工業技術院地質調査所編,1954:日本鉱産誌1b,工業技術院地質調査所
森慎一ら,1984:自然と文化No.7 1-18, 神奈川県内産の鉱物,平塚市立博物館
加藤昭ら,1996:神奈川自然史誌資料17 95-107, 神奈川県産鉱物目録,神奈川県立生命の星・地球博物館
東京鉱山監督局管内 鉱区一覧(明治44~大正15年、昭和2~16、24、28、32、36、39、42、45年)
神奈川県,1948:資源調査報告書34-50,神奈川県
神奈川県,1967:山北町森林基本図5千分の一地図19-8,19-9,神奈川県
横浜刑務所編,2000:横浜刑務所落成記念誌,横浜刑務所
横浜刑務所編,1987:横浜刑務所竣工50年史,横浜刑務所
奥野幸道,2004:丹沢今昔,有隣堂
中野敬次郎,1982:かながわ風土記58号,箱根丹沢秘伝帖(11)39-45北条氏と丹沢資源,丸井図書出版
山と渓谷社編,1956:丹沢山塊‐登山地図帳‐,山と渓谷社
佐藤芝明,1996:現代に活きる山の神伝承,丸の内出版
佐藤芝明,1990:山の神の民俗と信仰 丹沢・桂川・足柄,丸の内出版
国土地理院,1956:駿河小山2万5千分の一地図,国土地理院
岡澤重男,2006:誰も知らない丹沢,風人社
つづく
次回8.鎌田鉱山(丹沢で唯一の金の産出)
参考文献(7)順不同
工業技術院地質調査所編,1954:日本鉱産誌1b,工業技術院地質調査所
森慎一ら,1984:自然と文化No.7 1-18, 神奈川県内産の鉱物,平塚市立博物館
加藤昭ら,1996:神奈川自然史誌資料17 95-107, 神奈川県産鉱物目録,神奈川県立生命の星・地球博物館
東京鉱山監督局管内 鉱区一覧(明治44~大正15年、昭和2~16、24、28、32、36、39、42、45年)
神奈川県,1948:資源調査報告書34-50,神奈川県
神奈川県,1967:山北町森林基本図5千分の一地図19-8,19-9,神奈川県
横浜刑務所編,2000:横浜刑務所落成記念誌,横浜刑務所
横浜刑務所編,1987:横浜刑務所竣工50年史,横浜刑務所
奥野幸道,2004:丹沢今昔,有隣堂
中野敬次郎,1982:かながわ風土記58号,箱根丹沢秘伝帖(11)39-45北条氏と丹沢資源,丸井図書出版
山と渓谷社編,1956:丹沢山塊‐登山地図帳‐,山と渓谷社
佐藤芝明,1996:現代に活きる山の神伝承,丸の内出版
佐藤芝明,1990:山の神の民俗と信仰 丹沢・桂川・足柄,丸の内出版
国土地理院,1956:駿河小山2万5千分の一地図,国土地理院
岡澤重男,2006:誰も知らない丹沢,風人社
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