丹沢の鉱山跡を探る 10   丹沢だより435号 2006/11(玄倉銅山の探索)

丹沢の鉱山跡を探る 10             


4-2.「玄倉の幻の銅山跡」(玄倉は、元鉱山町であったのか?)

 さて玄倉銅山だが、江戸時代の銅山の形態からすこし考えてみよう。江戸時代の産銅は、山元での粗精錬が求められていた。そして、ある程度の精錬された荒銅を、さらに別の場所に持ち込み精錬して銅を製造していた。粗精錬には、多量の木炭が必要であり、樹木が多いところ出なければ成り立たない。また炭焼きの技術も必要であった。焼成には、ばい煙も発生するので、山元での粗精錬が義務付けられていたのであろう。

 採掘は山師が統括し、その下に金子(間歩の見立)・大工(抗夫に相当)・手子(鉱石の運び出し)・樋大工・樋引(水抜き)・山留(土止め)・寸歩(測量)・鍛治(工具係)等がおり、買石(選鉱・精錬の統括)の下には、板取・吹大工(溶融)・破女(砕石)・炭焼等がおり分業体制で作業をしていた。これらをまとめると相当数の人々が鉱山で働いていたと考えられる。銅の精錬方法は、細かく砕いた鉑(鉱石)を薪の上に引き、鉑と薪を交互に重ね30日間ほど焙焼し、焼鉑としこれを炉に移して木炭と珪石を加えて吹溶かす。カラミは軽いため、溶けた湯(溶融銅)の上に浮くので、それを除き荒銅としたそうである。

 玄倉銅山の史実から考えると、採掘期間は短いが鋳銭にも使用できるくらいの産銅があったと見ると、玄倉付近は一過性ではあるが、多数の鉱山労働者を抱える鉱山町であったと見てよいだろう。玄倉と言えば真っ先に思い浮かべるのが、尊仏様の参拝路だが新編相模風土記稿の玄倉の項目には、尊仏様のことしか書かれていない。なぜだろう?

 これは、過去に存在した鉱山が主では無く、従として玄倉の一角を占めていたのでないかと考えている。鉱山には、専門の職人が従事していた。また日雇いとしての玄倉村民の雇用もあったが重要な仕事では無かったのであろう。そして鉱山が衰退するにつれて一部の職人は帰農するなりして玄倉等に住み着いたが、ほとんどの専門の職人は、他の鉱山へ移動して行ったため、記録も無くなってしまった。
 玄倉銅山の初出は1673年、その後70年後(1739~1744年)再発見、そして100年後に記稿の編纂。江戸時代の平均寿命を40歳と見積もり、この間4~5世代の交代があったとみると、ただの銅山の伝承は消えてしまうのも当然と思う。(金なら別だが)しかし尊仏様は、信仰の中に引き継がれていたのだろう。

専門の職人集団は、武田信玄の金山衆に源を発する。東沢の丹沢鉱山は「武田信玄時代(1540~1550)に発見された」と言う伝承がある。ちょうどこのころ武田家と北条家は、蜜月の時代だった。北条氏政が武蔵国松山城を攻め落とすのに、武田信玄の金山衆の手助けを受けたとの史実(1562)もあり、北条の領域だった東沢の丹沢鉱山の旧抗は、武田の金山衆が掘ったのかもしれない。その後 武田と北条は、戦火を交えることになる。

 丹沢と甲州は山一つ隔てただけなので、甲州と西丹沢に関しては特に交流があったと言われている。箒杉の村落の伝説や、道志側からお嫁に入ったことが多いとかの話を聞くと古くから交流があったのであろう。そのため西丹沢周辺には、信玄にかまけた伝承が多い。北条より信玄のほうがカリスマ性もあり、実直な北条の○○と言うより、信玄の○○と言ったほうが受けが良いことは確かだ。玄倉の小名 白井平は、世附の飛地だった。と言うことから、その世附の北を辿ると、信玄の軍勢が越えたと言われる城ヶ尾峠、信玄平があり、さらにその北西には、現在の地図を見ると道志側に白井平の地名もある。なにか玄倉の白井平との因縁を感じる。

以上により名前は、玄倉銅山であったが、鉱山を主体とした村は、玄倉とは別の場所にあったのではないかと考えた。玄倉が地元住民の衣食住の中心部だと考えると、通勤圏内にあたる鉱山があった出先の村が必要となってくる。明治時代の陸測2万図で鉱山労働者が、衣食住ができるような平坦な場所を玄倉以北で探してみた。このころの玄倉川には、堰堤も無く江戸時代からの状態を良く残していると考えられるためである。(ただし現在の2万5千図と比べると大きな違いがある)

玄倉以北でそのような場所は、(括弧内は、明治以降の状態)

1.白井平があった地点 (村があった)

2.山一つ越した現在で言えば谷戸ノ影沢が落ちている、玄倉林道ゲート付近

3.境隧道手前のカイモンヤ平ノ沢、キジゴク沢出合

4.鉱山町というと女郎話が良く出てくるが、女郎小屋沢出合から女郎小屋枝沢部分

   (炭焼き小屋や、造林小屋があった)

5.中ノ沢休泊所付近(造林小屋があった)

6.小川谷の欅平(ワサビ田、造林・炭焼き小屋があった)

 4.の場所より上流は、容易に人が近づけない深い渓谷になっている。1~4の場所は、川沿いか、前尊仏様の参拝路もしくは、山神峠越えで容易に行くことができる。小川谷方面では、中ノ沢休泊所、欅平が挙げられる。この欅平も「信玄ノ隠シ道」と呼ばれている小川谷廊下を高巻いた経路で玄倉と繋がっている。

 玄倉林道ゲート付近とキジゴク沢出合に近い境隧道付近には、焼けの兆候が認められる。また小川谷の欅平は、鉱山があった東沢の出合でもある。新編相模風土記稿によれば、玄倉村の小名として白井平、上の庭、下の庭、奧ヶ谷戸が挙げられており、上の庭については、足柄之文化8号によると玄倉の上部の場所を示している。さてこの奧ヶ谷戸、名前からして谷戸ノ影沢付近と見て良いのではないかと見ている。さて前号で幻の玄倉銅山のあった場所は、玄倉川に沿った場所ではないか?との推定を基にすると銅山の候補から、欅平と中ノ沢休泊所が外れる。もし、残り4箇所に鉱山に付属する村があったなら、近くに坑道が見つかるはずである。1と2の白井平から上流部分には、確かに鉱山跡があった。それから察すると谷戸ノ影沢が玄倉川に注ぐ地点。いまのゲートがある場所から上流に女郎小屋沢出合付近にかけて、きっとどこかに鉱山跡があるはずである。現在は、小畑堰堤、赤棚堰堤があるため明治時代より、川床がだいぶ上がってしまって、埋まっている可能性も高いが、堰堤から離れた上流部分ならば見つかる可能性も高い。

それでは、さっそく探してみよう。「こっちだよー こっちだよー」の呼び声を頼りに!

 今回の探索は、前に投稿した玄倉の前尊仏様の参拝路が玄倉川に降りてきている地点も見てくることにした。登り始めは、白井平 小林建材の川砂利採石場の左岸の家の跡があった斜面。参拝路があった高度まで直登し、水平路を探した。なんとはなしに獣道らしい水平路を川に平行して上流方向に進んだ。周囲は杉林。涸沢を越え尾根を巻くところで、はっきりとした道型になり、そのまま尾根を越して経路に従って下ると、あっけなく谷戸ノ影沢の堰堤の上にでた。そのまま降り玄倉林道を横切り、小畑堰堤の上の広々とした川原を遡行。
 地質と断層を考えると鉱山は、玄倉川右岸にありそうである。前号で見つけた鉱山跡も右岸であったため重点的に右岸を探した。地図で川が直角に曲がる地点を越え、川幅が段々狭くなってきた。右岸には所々焼けの兆候も見られる。靴が水に濡れることもなく粛々と遡行。芋の沢出合の左岸には、台地上に整地された部分がある。ひょっとしたら鉱山の跡かと思ったが、境隧道からの経路が降りてきているだけだった。こちらも、はっきりとした経路がある。周囲は垂直に切り立った岩壁になり、まるで井戸の底を歩いているようだ。さらさらと流れる清流と、紅葉のコントラストがこの渓谷を彩っている。

 そうこうするうちに、赤棚と言われる赤色の岩の場所に来た。プロローグで述べたように赤が付く場所は、鉱山に関係あるとのことなので周りを調べたが、それらしき兆候はなかった。この辺は、紅葉の穴場のようだ。川が左に曲がり始め、前方の高みには、林道のガードレールが望まれる。とうとう終点。赤棚の堰堤に突き当たってしまった。右岸の斜面を高巻けば上に抜けられるが、ちょっといやな斜面だ。この辺も焼けの兆候は数多く見られる。しかし、坑道らしきものは見つからない。残念ながらあきらめて引き返すことにした。どうも今回は、はずしたようだ。赤棚、芋の沢出合を過ぎ歩いて行くと、かわいそうに思ったのか「こっちだよー」の声が聞こえる。
 
 山神様は、意地悪だ。なかなか見せてくれない。赴くままに進んで行くと、なんと坑口がぽっかりと山の斜面に口を開けている。なんで遡上している時は、見つからなかったのだろう。不思議だ!

まぼろしの玄倉鉱山か


坑道は深い


やっと終点

 さっそく入抗の儀式を執り行った。塩を抗口に盛り、四隅にお神酒を注ぎ、柏手を打つ。抗口の形状から察すると、江戸時代に掘られたものであろうか。内部は、焼けの状況があり落盤の跡も無い。ヘッデンで照らすも奧が見えないくらい深い。そこで入ってみた。屈んでやっと進めるくらいの大きさ。この形状だと、明治以前に掘られた可能性が高い。周囲は、焼けの兆候のまま最奧部まで繋がっている。奥行きは20mくらいあるのではないかと思う。最奧部は、行き止まりで側坑道も無い。試掘抗なのであろうか?表に出て周囲を見回すと、なにやら周辺に埋まった坑口らしきものもある。ここも玄倉にあった幻の銅山の一つなのであろうか? つづく

次回4-3 「玄倉の幻の銅山跡」(玄倉は、元鉱山町であったのか?)

参考文献は、次回まとめて掲載

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