丹沢の鉱山跡を探る 5  丹沢だより430号 2006/5 (戸川の砥石・塔の岳直下 大金、小金沢)

丹沢の鉱山跡を探る 5               
3. 「丹沢だより」の記事から

丹沢産砥石で砥ぐ


砥石の露頭

3-2.「戸川の砥石」 大倉から徒歩2時間30分   「丹沢だより」399号から 

 水無川木ノ又大日沢・セドノ沢・戸沢付近に砥石鉱山があったそうだ。大日鉱山の坑道を「砥石を採っていた穴だ。」と言う人もいるがまったく別の場所だ。戸川は、「新編相模国風土記稿」によると「当所水無川の一名を砥川と唱うるより村名の名起これり。されば古は村名に砥の字を用いしが、いつの頃か今の如く改めしという」と記されている。また「神奈川県秦野地方の地名探訪」では、洪水の時に塔ヶ岳辺より落ちる水勢が強くて、砥石が多く流れ出たからとしている。さらに古くは、延享元年(1744年)の横野村の記録には「行者峯に青砥御座候中略 寛文年間(1666年ころ)横野村・菩提村両村ヨリ成瀬五左衛門御注進申上候…」とあるところからみると、砥石の存在は古くから知られていたようだ。行者岳は、戸沢の上部に当たり修験者が修行した場所であると言われている。修験者が見つけたのであろうか?山岳修験者は、やまし鉱山師の能力も兼ねそろえているというとの話しにも頷ける。

 手近な採掘場所は、書策新道が水無川を横切る地点(F5)の上流 木又大日沢の入り口付近だろう。露天掘りで掘り出されており、戸川砥と呼ばれる青白色の石である。この砥石 風化した安山岩で上質(オコンド)、並質(青砥)に分けて、鉱山道を利用して運び出されていた。上質の砥石は、戸沢の政次郎尾根付近にあるそうだ。
 これらは、最近(1972)まで採掘されており 秦野や小田原に卸されていて、農機具用の砥石として地元で消費されていた。書策新道途中から往復30分くらいなのでツツジ見物がてら砥石採取でも如何だろうか。木又大日沢出合で採れるのは並質の青砥であり農機具向けの荒砥として使える。

 水無川流域の話が続いているので「丹沢にん金山があった。」として、よく引用されている新編相模国風土記稿 三廻部の項、金山の場所は、さてどこだったのか?

三廻部の近隣か?もしくは、大金沢、小金沢か

 多くの登山ガイドブックには、地名の金の文字と三廻部からの近さから大金沢、小金沢を指していると書かれている。しかし武田信玄時代から明治時代にかけての丹沢は、地図にも大雑把に書かれた地域であり、その時代から地名としての大金沢、小金沢があったとは信じられない。地名がついたのは、明治以降の話とみてよいだろう。「玄倉史話」を書かれた池谷氏によれば、観音院住職の話として、唐沢と言われている沢が観音院のそばにあり昔 かな金ぼり堀沢と呼ばれていたそうである。また「神奈川県秦野地方の地名探訪」によると唐沢(金沢・金堀沢)は、中山峠近くにあるそうだ。近くの菖蒲の採石場では、自然銅の産出があった。との話もあり三廻部周辺でかなやま金山と呼ばれるような金属鉱石が産出されていた。と考えてもおかしくは無いだろう。

 「山北を中心とした足柄地方の『地名』について」を書かれた田代氏によると金堀沢は、砂鉄を掘っていた場所を示す。ともあり、三廻部のそばに鍛治ヶ谷戸の地名もあることから鍛治を行なう場所があった可能性もある。製鉄は、木炭を沢山必要とするので樹木が尽きると場所を移動するそうである。さらに戸川の砥石と並べると製鉄・鍛治・砥石で一連の流れが出来そうだ。 丹沢山中で鉄鉱石が取れたか?との話もあるが三保鉱山では、磁鉄鉱が採掘される寸前までいっていたそうだ。あながち拡大解釈でもないような気がする。

 古代の鍛治は、単に製鉄をするのではなく、銅も作ったり、はたまた金を取り出したりすることも指しているようでもある。記稿によると金銀砂が産出されたとのこと。鉄ではないかもしれない。永禄元年(1558年)の話をさらにその300年後に編纂(風土記稿)し、またその150年後に考察してもしかたないのかもしれない。ちなみに永禄元年当時は、武田信玄の時代なので、この風土記稿から「丹沢山中の信玄隠し金山」の伝承の突端が生まれたようである。

さて大金、小金沢周辺はどうか

 三廻部の周辺で地図上「金」がつく場所は、大金沢、小金沢しか近くにないので妥当かな?と思われても不思議ではない。風土記稿によると数百戸の集落があり鉱夫が働いていたとのこと。あの場所で生活するためには、山越えをしなくてはならない。物資の運搬には、当然馬が使われる。明治時代には、尊仏の土平(現在の尊仏の土平は、鍋割沢出合を示しているが調べてみると大金、小金沢付近が正しい場所である。)まで寄から鍋割峠を経てオガラ沢経由で馬が通ったとの記録もあり、成り立つ場所でもある。しかし同様な規模と考えられる、ほかの金山遺跡報告から考えると、遺構が全然みつかっていない。あの時代の金の採掘は、採掘現場で金鉱石を石臼で砕き、水選鉱して行なうのが普通であり、そのための石臼などが残されていてもおかしくはないのだが、そのような報告もない。
 数百戸の集落となると、とても大きな集落となる。それなのに墓、石塔、集落の跡も無い(台地状のテラス。石垣など。これから探してはみるが…)三廻部から尊仏の土平に入るのは、途中 中山峠を越えて寄に下り、さらに鍋割峠目指して登らなくてはならない。三廻部からの距離を考えると距離がありすぎる。これは、先の唐沢(金堀沢)の話しを考えるとやはり三廻部周辺にあったと考えても良さそうである。それではどうして大金、小金沢と名前が付いているのか?多分ここでもかね金が見つかっていたのだろうと思う。近くのオガラ沢に金が出たとの記事もあり、たまたま2つの別々の話が一つに結びついただけであろう。

次回3-3-1.「東沢の鉱山」(はたして金山はあったのか?) 

参考文献

鈴木政子,1983:秦野市史自然調査報告書1 秦野の自然Ⅰ 2.秦野産の砥石-戸川砥,秦野市教育委員会


秦野地学研究会編,1997:石ころは語る,夢工房


石塚利雄,1980:神奈川県秦野地方の地名探訪,創史社


雄山閣編,1972:新編相模国風土記稿, 雄山閣


伊藤嘉,2000:神奈川で発見された自然銅 中小企業診断協会神奈川県支部Webでの紹介 現在は消滅 


元引用 森慎一他:県内初の銅の鉱石を見よう,平塚市立博物館 (菖蒲の自然銅)


今村啓爾,1997:戦国金山伝説を掘る,平凡社


湯之奥金山遺跡学術調査団編,1992:山梨県西八代郡下部町湯之奥金山遺跡学術調査報告書


池谷嘉徳,1989:足柄之文化18号 68-83、 玄倉史話, 山北町地方史研究会


田代道彌,2004:足柄之文化31号 35-47、 山北を中心とした足柄地方の『地名』について,


山北町地方史研究会


奥野幸道,2003:丹沢だより399号,丹沢自然保護協会

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