丹沢の鉱山跡を探る 4 丹沢だより429号 2006/4(水無川源頭部)
丹沢の鉱山跡を探る 4
雪の水無本谷 大滝
妖しくひかる焼け石の例(オガラ沢産)
3. 「丹沢だより」の記事から
協会の「丹沢だより」も丹沢に関しての情報の宝庫だ。遡って読んでいくと色々な記事に巡り合うことができる。天狗さんことハンス・シュトルテ氏が丹沢夜話に書かれていた記事、超高圧送電線の問題、小川谷の林道工事の差し止め、鹿の食害論争、奥野幸道氏の丹沢に関する資料など知ることができた。しかし地質・鉱物・鉱山の記事に関しては、創刊号まで遡ってもあまり見つけることはできなかった。
雪の水無本谷 大滝
妖しくひかる焼け石の例(オガラ沢産)
チョットピンボケ 赤棚
3. 「丹沢だより」の記事から
協会の「丹沢だより」も丹沢に関しての情報の宝庫だ。遡って読んでいくと色々な記事に巡り合うことができる。天狗さんことハンス・シュトルテ氏が丹沢夜話に書かれていた記事、超高圧送電線の問題、小川谷の林道工事の差し止め、鹿の食害論争、奥野幸道氏の丹沢に関する資料など知ることができた。しかし地質・鉱物・鉱山の記事に関しては、創刊号まで遡ってもあまり見つけることはできなかった。
鉱物も自然の範疇であるが、動植物、昆虫と比べて生命体ではない・地味であるためか…はたまた鉱山=公害の発生源・自然破壊と思い浮かべてしまうので協会の記事には、相応しくないのか…ハッと気がつくと興にかませて書き連ねてしまった! この連載終わるまでご容赦願いたい。さて投稿された主な記事を拾ってみると
71号 丹沢の地名 白石峠 大理石、ベスプ石 奥野氏投稿
102号 天狗の丹沢夜話 東丹沢に鉱区 H、シュトルテ氏投稿
104、106,108,111,113号 など神奈川県史取材記録 見上先生のお手伝い 奥野氏投稿
116号 丹沢遺聞6 西丹沢なんかでは、金を掘っていた H、シュトルテ氏投稿
399号 丹沢回想 戸川・諏訪丸の椎の木のこと 戸川の砥石 奥野氏投稿
最近では409号 丹沢回想 武田信玄の金山 奥野氏投稿をみつけることができる。
読み飛ばしがあるかもしれないが、この中から探してみよう
3-1.「水無川本谷のオキ」 大倉から徒歩5時間 沢登り中級
「丹沢だより」No.409(2004)奥野氏の「武田信玄の金山」に出てくる秦野の鉱山 毎日新聞記事から。以下引用 明治26年5月4日:塔ヶ岳で銅脈がある。昭和4年6月18日:金銅脈発見は塔ヶ岳の絶頂、実地踏査の談、中略 場所は中郡北秦野村の共有地に係る塔ヶ岳の絶頂で、同村字戸川から北方約四里で 中略 其の両側の岩壁は何れも焼石露出し居り、左側の焼石約1間ほど掘削してある。この内部は粘土多く多数の鉱石が放光し居るを認む。 中略 同所は水無川上流の渓谷を境界にとして、左が西秦野村で右が北秦野村の共有に属している。引用終わり 水無川にも鉱脈がある?!そんな場所があるとは、露知らず今まで何回となく遡行した本谷。明治26年の記事は、明治39年発行日本山岳会誌「山岳」一年一号に出てくる高野鷹蔵氏の登山記「塔が岳」よりも13年も古い。やまし鉱山師は、登山者よりも早くこの周辺を歩き回っていたようだ。
さてこの場所を特定してみよう。本連載(426号)のプロローグで地名からかなやま金山を探す話を思い出してほしい。この中で「赤が付く場所、焼けがある場所に鉱物産出の兆候がある」と書いた。焼石があり、まさしくその通りである。粘土については、渋沢鉱山の副産物で産出されていたので皆さんの記憶にあるかと思う。左が西秦野村で右が北秦野村。これは水無川本谷(別名境沢)を示していると考えて間違いはない。そこで探してみると登山ガイドブックの中でこれに該当すると思われる記載があった。塚本閤治氏の日本山岳写真書「丹沢山塊」昭和19年(1944) 水無川の項 以下引用 それより5分足らずで最後の二俣地點に達する。中略 先程の左俣は入ると間もなく小棚が連続して五つ程現れて来る。此處を過ぎると最後の大棚で約九米位はあろう。岩壁が鐵分を多量に含有しているのであろうか非常に赤褐色をしているので此の棚を我々の仲間では赤棚と假稱している。引用終わり 赤があった。焼けの兆候もある。この場所は、現在の大滝の上 頂上直下の二又の左又に該当する。今は、この二又を右に登って稜線にでるのが通常のコースだが、昭和13年ころの開拓時代では、ガイドブックによっては左又を登っている例もあった。さて今はどうなっているだろうか?かね金があるのであろうか?そこで行ってみた。前日の降雪でだいぶ積雪があり、本谷はベルグラだらけで登るのに難儀した。ハンマーでベルグラを叩き落しながらスタンス・ホールドを作りやっと大滝到着。大滝は崩壊したとはいえ水量も多く見ごたえがあった。大滝の手前 左岸には、これも赤棚と称して良いかと思うほどの赤のルンゼがある。定番通り大滝そばのルンゼの雪を掻き分け直登し迂回。二又まで辿りつき、コースとは違う左又に侵入。水の流れたガリーを直登。前方にガイドブック通りの赤棚があった。しかし周囲を見回しても積雪10cmのため焼石が、散乱しているのが分からずじまい。一攫千金の夢は、はかなく消えた。(左又は浮石・落石多く危険だ)
昭和11年(1936)の「山と渓谷」40号 坂本光雄 丹澤・塔岳雑談の冒頭には、「アノー音かねー あら水無川のオキでよー金鉱が見つかったで、あつこではっぱ爆薬かけているんズラー」と坂本氏が農民に聞いた話が書かれており、昭和11年にはすでに試掘が始まっていたことを伺い知る事ができる。登山記録として水無川水系が開拓されだしたのは、雑誌「ハイキング」を探すと昭和13年ころから散見できる。しかし昭和4年にはやまし鉱山師が入り込み、そして昭和8年には試掘登録(大日鉱山)がなされているところをみると、この周辺は、登山者よりもやまし鉱山師が、幅を利かせていたようである。大日鉱山のあるセドノ沢は、戦略物質であるマンガンが採鉱されていたため、また発破を行なうためは、立ち入り禁止の措置が取られていた。本谷も立ち入り禁止の措置が取られていたと書いてある本もあり、それがために登山者が入れなかったのであろう。昭和初期の丹沢開拓期 今で言うところの表丹沢水無の沢は、見捨てられていた。と奥野氏は、「丹沢だより」401号「水無川本谷大滝の思い出」に書かれておられる。たぶんこれも見捨てられていた理由の一つであろう。
ガイドブック上で水無川本谷が最初に紹介されたのは、調べた限りでは昭和15年発行坂本光雄著「丹沢の谷歩き」であり、その後ポツポツと紹介されだしている。さて毎日新聞記事に載っていた水無川の鉱脈の記事 大日鉱山周辺を踏査していたやまし鉱山師が見つけたのが、ひょっとしてこの水無川源頭部の鉱脈ではないかと思う。木ノ又大日 直下で試掘が行われたため大日鉱山と言う名称が付いるが、鉱区は、北秦野・南秦野をカバーし広さも約77万坪(約1.6km四方)の試掘出願が行われており、十分水無川本谷からセドノ沢もカバーできる広さである。当初は、金・銅・硫化鉄を鉱種としているのでまさしく焼石を目的としていたのであろう。
71号 丹沢の地名 白石峠 大理石、ベスプ石 奥野氏投稿
102号 天狗の丹沢夜話 東丹沢に鉱区 H、シュトルテ氏投稿
104、106,108,111,113号 など神奈川県史取材記録 見上先生のお手伝い 奥野氏投稿
116号 丹沢遺聞6 西丹沢なんかでは、金を掘っていた H、シュトルテ氏投稿
399号 丹沢回想 戸川・諏訪丸の椎の木のこと 戸川の砥石 奥野氏投稿
最近では409号 丹沢回想 武田信玄の金山 奥野氏投稿をみつけることができる。
読み飛ばしがあるかもしれないが、この中から探してみよう
3-1.「水無川本谷のオキ」 大倉から徒歩5時間 沢登り中級
「丹沢だより」No.409(2004)奥野氏の「武田信玄の金山」に出てくる秦野の鉱山 毎日新聞記事から。以下引用 明治26年5月4日:塔ヶ岳で銅脈がある。昭和4年6月18日:金銅脈発見は塔ヶ岳の絶頂、実地踏査の談、中略 場所は中郡北秦野村の共有地に係る塔ヶ岳の絶頂で、同村字戸川から北方約四里で 中略 其の両側の岩壁は何れも焼石露出し居り、左側の焼石約1間ほど掘削してある。この内部は粘土多く多数の鉱石が放光し居るを認む。 中略 同所は水無川上流の渓谷を境界にとして、左が西秦野村で右が北秦野村の共有に属している。引用終わり 水無川にも鉱脈がある?!そんな場所があるとは、露知らず今まで何回となく遡行した本谷。明治26年の記事は、明治39年発行日本山岳会誌「山岳」一年一号に出てくる高野鷹蔵氏の登山記「塔が岳」よりも13年も古い。やまし鉱山師は、登山者よりも早くこの周辺を歩き回っていたようだ。
さてこの場所を特定してみよう。本連載(426号)のプロローグで地名からかなやま金山を探す話を思い出してほしい。この中で「赤が付く場所、焼けがある場所に鉱物産出の兆候がある」と書いた。焼石があり、まさしくその通りである。粘土については、渋沢鉱山の副産物で産出されていたので皆さんの記憶にあるかと思う。左が西秦野村で右が北秦野村。これは水無川本谷(別名境沢)を示していると考えて間違いはない。そこで探してみると登山ガイドブックの中でこれに該当すると思われる記載があった。塚本閤治氏の日本山岳写真書「丹沢山塊」昭和19年(1944) 水無川の項 以下引用 それより5分足らずで最後の二俣地點に達する。中略 先程の左俣は入ると間もなく小棚が連続して五つ程現れて来る。此處を過ぎると最後の大棚で約九米位はあろう。岩壁が鐵分を多量に含有しているのであろうか非常に赤褐色をしているので此の棚を我々の仲間では赤棚と假稱している。引用終わり 赤があった。焼けの兆候もある。この場所は、現在の大滝の上 頂上直下の二又の左又に該当する。今は、この二又を右に登って稜線にでるのが通常のコースだが、昭和13年ころの開拓時代では、ガイドブックによっては左又を登っている例もあった。さて今はどうなっているだろうか?かね金があるのであろうか?そこで行ってみた。前日の降雪でだいぶ積雪があり、本谷はベルグラだらけで登るのに難儀した。ハンマーでベルグラを叩き落しながらスタンス・ホールドを作りやっと大滝到着。大滝は崩壊したとはいえ水量も多く見ごたえがあった。大滝の手前 左岸には、これも赤棚と称して良いかと思うほどの赤のルンゼがある。定番通り大滝そばのルンゼの雪を掻き分け直登し迂回。二又まで辿りつき、コースとは違う左又に侵入。水の流れたガリーを直登。前方にガイドブック通りの赤棚があった。しかし周囲を見回しても積雪10cmのため焼石が、散乱しているのが分からずじまい。一攫千金の夢は、はかなく消えた。(左又は浮石・落石多く危険だ)
昭和11年(1936)の「山と渓谷」40号 坂本光雄 丹澤・塔岳雑談の冒頭には、「アノー音かねー あら水無川のオキでよー金鉱が見つかったで、あつこではっぱ爆薬かけているんズラー」と坂本氏が農民に聞いた話が書かれており、昭和11年にはすでに試掘が始まっていたことを伺い知る事ができる。登山記録として水無川水系が開拓されだしたのは、雑誌「ハイキング」を探すと昭和13年ころから散見できる。しかし昭和4年にはやまし鉱山師が入り込み、そして昭和8年には試掘登録(大日鉱山)がなされているところをみると、この周辺は、登山者よりもやまし鉱山師が、幅を利かせていたようである。大日鉱山のあるセドノ沢は、戦略物質であるマンガンが採鉱されていたため、また発破を行なうためは、立ち入り禁止の措置が取られていた。本谷も立ち入り禁止の措置が取られていたと書いてある本もあり、それがために登山者が入れなかったのであろう。昭和初期の丹沢開拓期 今で言うところの表丹沢水無の沢は、見捨てられていた。と奥野氏は、「丹沢だより」401号「水無川本谷大滝の思い出」に書かれておられる。たぶんこれも見捨てられていた理由の一つであろう。
ガイドブック上で水無川本谷が最初に紹介されたのは、調べた限りでは昭和15年発行坂本光雄著「丹沢の谷歩き」であり、その後ポツポツと紹介されだしている。さて毎日新聞記事に載っていた水無川の鉱脈の記事 大日鉱山周辺を踏査していたやまし鉱山師が見つけたのが、ひょっとしてこの水無川源頭部の鉱脈ではないかと思う。木ノ又大日 直下で試掘が行われたため大日鉱山と言う名称が付いるが、鉱区は、北秦野・南秦野をカバーし広さも約77万坪(約1.6km四方)の試掘出願が行われており、十分水無川本谷からセドノ沢もカバーできる広さである。当初は、金・銅・硫化鉄を鉱種としているのでまさしく焼石を目的としていたのであろう。
若松五雄氏によるとやまし鉱山師は、過去の古文書などからも鉱脈を見つけると言われ、一度掘った跡を再度掘ることが多いそうである。また旧抗があった周辺を隈なく調べるそうだ。大日鉱山までの経路は、明治25年発行の陸測図にも明記してあるので地元では知られた経路だったのだろう。さてこの水無川源頭部の鉱脈 運び出すのも大変であり、鉱脈としても貧相だったに違いない。塔ノ岳の周辺には、反対側に大金沢、小金沢もあり分断されたなんらかの鉱脈があると考えても不思議はない。残念ながら大金、小金沢の遡行記録上には、「赤」とか「焼け」とかの言葉は、見つけることができなかった。
金が発見されると言うと、我々素人は、キラキラ光る黄金が目で見ええると考えがちだが、そんなことは滅多に無いそうだ。金鉱石は、灰黒色の細かな縞模様が石英に挟まれた状態で産出(銀黒)するのが普通なようで、その銀黒部分に細かい黄鉄鉱、黄銅鉱が集合してその中に金も混ざっているそうだ。どうも丹沢の金は、熱水鉱床型と言われる硫化鉄(黄鉄鉱)や硫化銅(黄銅鉱)の鉱石と一緒に産出するのが常であるようである。これでは赤錆に、まみれて金があるかどうかは分からない。人間の目で見て金とある分かるには30g/t(30ppm)程度の濃度が必要で、それ以下の濃度では鉱石内に金があることを人間の目で見分けることはほとんどできない。あの記事の放光している鉱石は、2黄銅鉱、黄鉄鉱とみて間違いないだろう。
次回3-2.「戸川の砥石」 あの鉱山道を利用して運び出されていた砥石があった。
参考文献
坂本光雄, 山と渓谷40号「丹澤・塔岳雜談」76-84、1936,山と渓谷社
坂本光雄,1940:丹沢の谷歩き,体育論評社
塚本閤治,1944:日本山岳写真書「丹沢山塊」,山と渓谷社
東京鉱山監督局管内 鉱区一覧(明治44~大正15年、昭和2~16、24、28年)
若尾五雄,1994:黄金と百足 鉱山民俗学への道,人文書院
Wikipedia Web百科事典 金
丹沢だより創刊号~現在まで
金が発見されると言うと、我々素人は、キラキラ光る黄金が目で見ええると考えがちだが、そんなことは滅多に無いそうだ。金鉱石は、灰黒色の細かな縞模様が石英に挟まれた状態で産出(銀黒)するのが普通なようで、その銀黒部分に細かい黄鉄鉱、黄銅鉱が集合してその中に金も混ざっているそうだ。どうも丹沢の金は、熱水鉱床型と言われる硫化鉄(黄鉄鉱)や硫化銅(黄銅鉱)の鉱石と一緒に産出するのが常であるようである。これでは赤錆に、まみれて金があるかどうかは分からない。人間の目で見て金とある分かるには30g/t(30ppm)程度の濃度が必要で、それ以下の濃度では鉱石内に金があることを人間の目で見分けることはほとんどできない。あの記事の放光している鉱石は、2黄銅鉱、黄鉄鉱とみて間違いないだろう。
次回3-2.「戸川の砥石」 あの鉱山道を利用して運び出されていた砥石があった。
参考文献
坂本光雄, 山と渓谷40号「丹澤・塔岳雜談」76-84、1936,山と渓谷社
坂本光雄,1940:丹沢の谷歩き,体育論評社
塚本閤治,1944:日本山岳写真書「丹沢山塊」,山と渓谷社
東京鉱山監督局管内 鉱区一覧(明治44~大正15年、昭和2~16、24、28年)
若尾五雄,1994:黄金と百足 鉱山民俗学への道,人文書院
Wikipedia Web百科事典 金
丹沢だより創刊号~現在まで
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