丹沢の鉱山跡を探る 9  丹沢だより434号 2006/10(坂口鉱山・玄倉銅山)

丹沢の鉱山跡を探る 9 
                             


4-1.玄倉の幻の銅山跡(白井平に鉱山があった)

 山北町地方史研究会が発行している雑誌、足柄之文化の「玄倉史話」には「玄倉の前尊仏様」や、今回の「鉱山跡を探る」の記事を書くにあたり何度もお世話になった。

 今回は、「玄倉史話」に書かれている玄倉の銅山について探ってみよう。その引用元となった文献が、開成町教育委員会が刊行している開成町史研究『代官・蓑笠之助正高の研究-享保の改革との関連において』-高田稔氏著のなかの「3.蓑笠之助正高の業績(2)銅山の開発と鋳銭」の部分である。この研究の主要な内容は、将軍徳川吉宗による享保改革との関連に視点をおいて、代官蓑笠之助正高の治水、農政、勧農などの優れた業績を紹介したものである。以下 開成町史研究及び山北町史 史料偏からの玄倉銅山に関する引用まとめ

 玄倉の銅山の初出は

延宝元年(1673年)7月23日小田原西郡之内、玄倉山より出候銅、以下略

 出典 稲葉氏「永代日記」京都市 稲葉神社崇敬会文書

 この永代日記は、譜代大名 稲葉正則(1623~1696)が小田原藩政や領民の動向・はたまた幕藩関係、江戸での出来事などを詳細に日記に記述しているものである。日記には玄倉山としか書かれていない。東沢にあった丹沢鉱山は、武田信玄時代(1540~1550)に発見された。とのことなので、それより100年も後のことになる。その後、玄倉銅山は一旦史料上からは消え去り次に出てきたのが

 元文四年(1739年)12月相州酒匂川玄倉銅山 被仰請負人須藤平蔵の記述

出典 鋳銭重宝記

 続いて大岡日記が、元文五年(1740年)~延享元年(1744年)にかけて蓑笠之助正高らによって産銅と鋳銭が行なわれていたことを示している。

銅山に関する部分の引用

*元文五年11月 銅段々堀出し候得とも水深クはか取り申さず、略 且水深

         にて堀兼候二付、山下より堀貫水をはかせ候積り、只今最中堀申候由

  坑道の出水で苦労している様子が示されている。

*寛保二年(1742年)5月 水抜拵方之義書付一通絵図一枚之あげる

*寛保二年(1742年)7月 玄倉銅山之義、銅鉉江堀当て候

  水抜き図面の作成、銅鉉(鉱脈)を掘り当てた。

*寛保二年(1742年)10月 相州銅山之義先頃申上候鉉筋又細相成外を堀候旨

 7月に新たな銅鉉を掘り当てたが産出量が減少してきた。

*寛保三年(1742年)4月 相州玄倉銅山水貫之義

*寛保三年(1742年)10月 水敷直り鉑出候

*寛保三年(1742年)11月 玄倉銅山之義鉉筋江堀当候

 水抜き、出水が直り鉑(精鉱)を出荷した。(水敷とは水面との高度差)このころは、出水に悩まされながらも何とか銅鉉(鉱脈)を掘り当てていたようだ。

*延享元年(1744年)3月 玄倉山銅堀之義

*延享元年(1744年)5月 銅山之義鉉切少ならては銅出申さず候

*延享元年(1744年)5月~6月 拝金千両の取り扱い・返納が課題となっていた。

延享元年5月以降は鉱脈が減少し採算が取れなくなり、借入金千両の返納で玄倉銅山はもめていたようである。(原文ではホリは、堀で書かれていたのでそのまま記載した)

これ以降 玄倉銅山の史料は確認されてないので閉山したようだ。

 さらに大岡日記によると、元文五年玄倉銅山で採れた銅を使用して鋳銭が行なわれたことが明らかになっており、銅座が足柄上郡藤沢村(中井町藤沢)と吉田島村(開成町)に設けられた。そこで作られたのは寛永通宝一文銭であった。玄倉銅山は、大岡日記から推定すると元文五年(1740年)~延享元年(1744年)のたった5年間の命であった。

 丹沢の過去と言えば新編相模風土寄稿を思い浮かべるが、玄倉の項には、玄倉銅山のことは、まったく書かれていない。(風土寄稿は1824年編纂)また、その後の皇国地誌(村誌)にも書かれていないところを見ると忘れ去られた存在であったのであろうか?

 戦後 東沢周辺の玄倉鉱山、丹沢鉱山(前号参照)は、金等を目的として試掘されてはいたが実際は、銅鉱石等を採掘していたことは、日本鉱産誌や平塚市博物館研究報告「自然と文化」により明白な事実であった。この開成町史研究に出てくる玄倉の鉱山は、これら鉱山の過去の姿であったのか?答えはたぶん否であろう。

 まったく別の場所に鉱山があったと考えるのが妥当だと思う。開成町史研究に紹介されていた、大岡日記(江戸時代・大岡越前の日記)によると、だいぶ坑道の出水で悩まされていたようである。と言うことは、川の近くで常に水流がある場所であったと考えるのが妥当だ。
 丹沢鉱山、玄倉鉱山は、沢の源頭部に位置しており出水で悩まされる場所では共にない。また鋳銭ができるくらいの銅の産出量があったとは、坑道の規模からみても考えられない。はたして玄倉銅山は、どこにあったのであろうか?この連載を書くにあたって良く引用している日本鉱産誌によると、戦後、坂口鉱山が玄倉の北2km白石平にあった。とのこと。白石平?これは白井平の誤記であることに直ぐに気づいた。この日本鉱産誌から引用している、日本鉱床誌・関東編、「自然と文化」の記事も皆 白石平である。引用元に誤記があったため、そのまま継承されていたようだ。玄倉の北2kmの位置にあるのは紛れもない白井平である。

 さてこの白井平。大正時代に発行された陸測5万分の一地図には場所が示されている。現在ここには、小林建材の川砂利採石場があり場内に立ち入ることはできない。森林基本図によると採石場入口の涸沢は、白井平沢とされているので場所は間違いないだろう。林道を挟んだ山側には、いかにも家があった跡があり過去に集落があったことが伺える。

 はたして、この付近のどこに鉱山があったのか?鉱山師は、よく旧鉱の跡を探して鉱脈を見つけることがあると言う。坂口鉱山も同様にして見つけられた可能性が高い。そして江戸時代に採掘されていた玄倉の幻の銅鉱山は、玄倉の近く白井平周辺にあるに違いない。この辺ならば玄倉川の水量も多く、水際に鉱山があれば出水に悩まされたことも想像できる。採石場には立ち入りができないので、立間大橋から白井平下流にかけて玄倉川右岸を探してみたが、それらしき兆候(焼け・赤茶色の岩石)は見つけられなかった。

 こんどは立間大橋から上流にかけて探してみたら、なんと小畑堰堤の直ぐそば、玄倉川右岸に坑道跡が見つかった。そして焼けの兆候も!しかし、この坑道掘りかけのようで、奥行きは3mくらいしかない。水面ぎりぎりの部分には、埋まった坑道跡らしきものもある。また周辺の断層にも坑道跡らしきものがあるが、どれも崩落しており確認はできない。これが幻の玄倉銅山跡であろうか?それとも戦後の坂口鉱山の跡であろうか?江戸時代は、もちろん小畑堰堤など無く、丹沢黒部と言われていた急峻な渓谷まで川筋を辿って行けたはずである。現在 小畑堰堤の上は、岩石が堆積し大きな川原になっており真中に水がチョロチョロ流れるだけである。ひょっとしたらこの堆積の下に玄倉銅山があったのであろうか?

 玄倉林道を、丹沢黒部と言われた青崩隧道まで辿ってみると林道の脇の崖に焼けのある場所が見つかる。最初は、現在のゲートがある場所、駐車場になっている手前の左岸の壁。



 この壁の玄倉川側対岸には、先ほどの坑道跡がある。次に焼けの兆候があるのは、境隧道の両脇であり、さらに林道を進んだ場所には女郎小屋沢出合がある。女郎と鉱山は、切っても切れない関係にある。さらに女郎小屋沢の詰めの反対側には、東沢の丹沢鉱山、そばにはモチコシ沢の玄倉鉱山、同角と言う地名。なにやらこの辺には、秘密が隠されているようである。つづく

「坂口鉱山」 玄倉から徒歩30分 白井平 場所:不明 利採石場か?・立間堰堤付近か?

 坂口鉱山の鉱区一覧への初出は、昭和30年(1955)試掘登録番号308である。その後

 昭和32年の鉱区一覧までは、登録を追跡できるが昭和34年にはもう登録されていなかった。このころに試掘をやめたものと思われる。鉱種は、金、銀、銅であった。日本鉱産誌によると、場所は白石平(白井平の誤記)玄倉の北方2km 第三期御坂層と閃緑岩からなる。御坂層の緑色千枚岩中に鉱脈があり、黄銅鉱、黄鉄鉱、石英が産出され銅の含有量は5%であった。

 平塚市博物館公式ページ 相模川の生い立ちを探る会活動記録 第144回玄倉「グリーンタフを貫くトナール岩」には、坂口鉱山跡を巡検した記録が載っている。コースは、山北町玄倉林道~仲の沢林道~坂口鉱山跡~小川谷で西丹沢のグリーンタフ・トーナル岩・鉱山跡を観察とある。詳細はWebを参照していただきたい。このときは、坂口鉱山跡には辿りつけなかったようだ。たどり着いた場所は、小川谷出合の小川谷山荘があった場所らしい。(http://www.hirahaku.jp/kyoushitsu_circle/saguru/sg031221.html)

次回4-2「玄倉の幻の銅山跡」(丹沢の鉱産地帯 ・玄倉は元鉱山町であったのか?)

参考文献(4-1)順不同

 池谷嘉徳,1989:足柄之文化18号 68-83 玄倉史話,山北町地方史研究会


 東京鉱山監督局管内 鉱区一覧(明治44~大正15年、昭和2~16、24、28、32、36、39、42、45年)


森慎一ら,1984:自然と文化No.7 1-18 神奈川県内産の鉱物,平塚市立博物館  


工業技術院地質調査所編,1956:日本鉱産誌1b-c,工業技術院地質調査所


今井秀喜ら編,1973:日本地方鉱床誌 関東地方,朝倉書店


神奈川県,1967:山北町森林基本図5千分の一地図 19-5,19-6,神奈川県


小葉田敦,1969:日本鉱山史の研究,岩波書店


高田稔,1988:開成町史研究2、1.代官・蓑笠之助正高の研究(2)銅山の開発と鋳銭,文化財保護委員会


相模川の生い立ちを探る会活動記録


http://www.hirahaku.jp/kyoushitsu_circle/saguru/sg031221.html


山北町編,2003:山北町史 史料編 近世,神奈川県山北町


若尾五雄,1994:黄金と百足 鉱山民俗学への道,人文書院


大日本帝国陸地測量部,大正14年発行:秦野 5万分の1

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