玄倉の前尊仏様を探る その三 丹沢だより421号 2005/7
さて丹沢だより4月号で旧版地図の紹介について書かかさせていただきました。明治25年発行の陸測2万分の一図「中川村」に玄倉から小川谷出合まで玄倉ノ野の西の中腹を経由している経路が記載されています。この経路は標高450~500m付近を等高線沿いに付けられた経路ですが、何の目的で川沿いではなく中腹をわざわざ巻いているのか理由がわかりませんでした。単なる山仕事の経路なら川沿いの道から斜面に向かって開かれるはずです。この地図 川沿いには、小川谷出合(白井平)、敷地山中腹まで。小川谷に入り弥七沢の尾根まで。の諸経路がありますし、もちろん山神峠越えも経路が記載されています。この等高線沿い経路の終点は、白井平を越えて玄倉川に降りた地点です。この先は、今は大きな3段の堰堤があるのみで、もちろん明治時代には堰堤はありません。そしてこの上流から昔の丹澤黒部と言われる渓谷に入ります。
この経路、ちょうど玄倉ノ野(立間山)西の中腹を通っています。前尊仏様は、立間山の西にあるとのこと、ひょっとして前尊仏様を参拝に行くときに使った道ではないかと思い、この経路沿いを探してみることにしました。この経路のどこかに前尊仏様が眠っているはずである。との確信に似た勘を頼りに・・・・
なにぶん地図が作製されたから100年以上も経過しているので歩く人がいなければ道跡も無くなっていると思われました。「さて登り口はどこだろうか?」神奈川県教育委員会発行の「西丹沢の民俗Ⅱ」によりますと玄倉での雨乞いは、村の鎮守様である八幡神社をまずお参りしてから玄倉川の白井平にある水神の淵に行き、それでも駄目なら塔ノ岳の尊仏様にお参りするとのこと。またその他西丹沢地方の尾崎、田ノ入、湯本平、山市場、用沢等では、玄倉の尊仏様に雨乞いに行ったそうです。(塔ノ岳の尊仏様とは、分けて書いてあるので玄倉に前尊仏様があったことは確かなようです。しかし、玄倉村の項目では、前尊仏様の説明はありませんでした。)そこで入り口は、八幡神社付近であろうとの推測で、玄倉の八幡神社の裏手を探しましたところ一条の道が玄倉ノ野(立間山)に向かっていました。途中右に折れる枝道がありましたがこれは、山神峠に向かう経路につながっていました。さらにだいぶ荒れた道たどり450~500m附近で道を探したところ、なにやらそれらしき経路を発見。 杉林を水平に通っており辿っていくと沢で分断されていました。しかし対岸を探すと経路があり、さらに辿っていくと発電所の鉄管路にぶつかりました。鉄管路の上には横断橋がかかっており、今まで辿ってきた経路が正しいことがわかりました。(この地点しか横断橋がありませんでした。)さらに辿ると発電所上部水槽の余剰水を流す水路にぶつかりそこにも橋が架かっておりました。その先は、今回は時間切れで辿りませんでしたが、道が広範囲にわたって崩落しており通行不能でした。
さて前尊仏様と思われる岩ですが、鉄管路を横断している橋から下方15mくらいのところに鎮座しておりました。高さ6mくらいのかなり大きな岩塔です。ただ残念なことに崩落防止のため全体が金網で包まれており、これでは、前尊仏様の神通力も発揮できない感じでした。その神通力をなんとか発露させんが為に、なんと頭に木が2本生えていました。この前尊仏様と思われる岩を見る限りでは、塔ノ岳にあった黒尊仏様の写真(1枚限りの「霧の旅」主催の松井幹雄氏によって撮られた大正時代の写真)にそっくりです。
周囲を見回しても石像が安置された跡、祭祀の跡があることは見受けられませんでした。
この状況から判断すると雨乞いの必要も無くなったため大昔に忘れ去られたものと思われます。発電所工事の際に片付けられたかもしれません。それにしても、発電所の鉄管路 わざわざ前尊仏様の脇を通さなくても良いと思うのに・・きっと岩盤が露出しており地盤が強固だったためでしょうか。
この見つけた前尊仏様と思える岩塔、ちょうど玄倉ノ野の中腹(480m付近)にあり、大きさは塔ノ岳に在った尊仏岩(1丈)より大きく5丈(15m)はありませんが下から見上げれば10mくらいはありそうです。位置的には、周辺の木々があまり生えてなければ、玄倉のバス停の前から見通せる距離です。(たぶん冬枯れの時期なら見通せます。)昭和20年代の玄倉の写真を見ると、この辺は、今のように木が生えてなく丸坊主にちかい様子。注意して見ると前尊仏様らしき岩塔が発見できました。(丹沢今昔 玄倉の項参照)
風土紀稿をまとめた人たちは、塔ノ岳の尊仏様と玄倉の前尊仏様の話をまぜこぜにして書いたのかもしれません。玄倉から塔ノ岳の尊仏様までは、山神峠を越え途中、逆木から川に下り、遡上して大金沢と小金沢に挟まれた尾根を登るのが古くからの参拝コースです。しかし玄倉から15km以上あり途中難路もあります。玄倉近隣の人々は、村の後ろに立つこの岩塔を、手軽にお参りにいける信仰対象としたのかもしれません。
前尊仏様から先、白井平先までの経路は、はたして何の目的で開かれた経路なのでしょう。明治初期の地図に登山道の記載は、まず考えられません。なんらかの仕事道、参拝道、地元で伝えられていた古道、材木の川流しをする際の迂回路でしょうか?新編相模風土記稿によると玄倉村の周辺に、白井平、上ノ庭、下ノ庭、奥ヶ谷戸の各小村があったそうです。前尊仏様から先の経路は、谷戸ノ影沢と言われていた地点で玄倉川に下りてきています。ここに奥ヶ谷戸があったのでしょうか?またまた想像は、尽きません。
玄倉の人に聞きましたところ八幡様の湯花祭は、7月と9月に行なうそうです。そのときまた訪れようと思っています。 とりあえず完
参考文献(その1~その3)
山と渓谷28号 坂本 光雄 「丹澤玄倉川と周圍の山々」、山と渓谷40号
坂本光雄 「丹澤・塔岳雜談」、神奈川県教育委員会発行 「西丹沢の民俗Ⅱ」、
ハイキング55号 小川 政夫 「蛭から塔まで」-丹澤山塊の地誌的研究、
新編相模国風土記稿、足柄の文化18号 池谷 嘉徳 「玄倉史話」、足柄の文化28号
小木 満「西丹沢拾い話」、丹沢だより No.295~300 小木 満「ユウシン地名考あれこれ」
(1)~(6)、明治25年発行の陸測2万分の一図「中川村」「塔嶽」、奥野 幸道「丹沢今昔」、ハンス シュトルテ 「丹沢夜話」、
送水管脇の前尊仏岩
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