西丹沢の同角沢周辺の鉱山跡の調査は、冬になり日照時間も短くなり、行ったら帰らなくてはならず当面お預け。
表丹沢にある大日鉱山は、稜線上に木ノ又小屋があるので一泊二日の日程で二日目に十分時間が取れるので踏査することにした。
以前の大日鉱山の記事は以下
丹沢の鉱山跡を探る 3 丹沢だより428号 2006/3 (大日鉱山) Upは2009年
それまでは、鉱山の記事は丹沢自然保護協会誌「丹沢だより」に投稿(2006~2007年)していた。紙媒体なので写真も多く載せられないし、文字数も限られていた。その内容を2009年からブログにそのままUpしたのが上記記事である。(但し鉱山の場所ははっきり書いていない)
2006年から早17年 最近丹沢
大日鉱山検索すると長い坑道が見つかっていることが判った。最近はGPS座標で場所も特定できるので17年ぶりに再訪した。
1回目の再訪は2023年11月
丹沢主稜奥山廻り-2023/11/30~12/03 YAMAPにUp
今まで見つけた坑道より長い坑道を先人のGPS軌跡で見つけた。
2回目は2023年12月 今回は稜線上の木ノ又小屋をベースとした。小屋から40分も掛からず大日鉱山跡にたどり着ける。これは便利!思う存分踏査ができる。
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かなり広範囲に歩き回った。飛んでるポイントはGPSの異常反射 試掘跡及び坑道は主に1050から1070mの間に分布している
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私が丹沢の鉱山探しで丹沢登山に関する古い本を蒐集したが、まともに鉱山跡が書かれているのは以下に示す本だけだった。登山者から見れば鉱山跡など本筋から逸れたものでありわざわざ紙面を割く意味がない。
手持ちの過去のガイドブックを調べてみた。
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丹澤山塊、水無川本澤及源次郎澤略図、ハイキング・ペン・クラブ編、 登山とスキー社 昭和16年(1941)4月25日から引用 F5上までの鉱山道とセドノ沢に大日鉱山の記号また木ノ又大日岳への直登ルート、源次郎尾根のルートなどが明示されているが本文中にはセドノ沢の遡行案内は無い。
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丹澤 登山地図帳2、水無川本谷略図、坂本光雄、山と渓谷社 昭和25年(1952)5月25日から引用 鉱山道の記載はないが木ノ又大日へのルートは書かれている。セドノ沢の遡行図は無い
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丹沢の山と渓、背戸の澤、坂井光一記:山と渓谷社昭和27年(1952)3月10日発行から引用 古い登山地図には鉱山道の記入があるものがある。
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日本におけるアメリカ軍機事故の一覧 Wikipediaをみても丹沢表尾根に墜落した飛行機は昭和20年以降ないので戦時中の墜落事故と思われる。
この本の背戸の澤の項の鉱山に関する部分を抜き出して見る。
戦争中鉱山作業中の為立入不許可で久しく遡行者の姿は見られなかった所である。1950年末の調査によっても左俣遡行パーティーは三、四を数えるのみであったと言われる。
現在(同年末)某バイヤーの出資に依り再びマンガン鉱採掘開始、栃木県出身の鉱夫に依り第一次作業として鉱石運搬用空中架線の緒に就き、往昔通り左俣右岸標高千米位の地点に鉱夫小屋四棟程建てられ、また本澤河身の源次郎澤出合稍下左岸、即ち源次郎澤入口より始まり本澤、源次郎間の尾根を登り本流滝場を右下に眺めつつ山腹を搦み、沖の源次郎澤僅か下流で本流に下降し、渡河して背戸の澤右岸尾根を搦んで鉱夫飯場に至る立派な鉱山徑の開始点直下にも鉱山小屋一棟建築中であるから萬一の時避難所に成る。
此の項本流説明にも述べる爆破作業は未だ始めてなかったが何時入山禁止に成るか判らから入るのは今の裡である。(中略)
比較的楽に登ると左上を走る徑にぶつかるから
のそのそ歩き上流へ辿る。両岸登れる4米滝を右に瞰て明瞭な澤沿いの徑を行くと直ぐ左より出合に八米(白竜の滝:マルフク記入)を持つ小窪が出合い右より急峻な岩窪を入れる。之は上部に鉱穴を有し程なく終わる。
僅か上流に二米の小滝ありこの上で米軍遭難の地と成る。基處彼處に点在している金属製部品、更に此處で徑は澤より離れて對岸(左岸)へ渡るから見過ぎしては不可ない。本流右股へ乗越す新徑である。此の上部で左股は二岐し標高九七〇米(1070mの誤記と思われる:マルフク記入)左股最後の二股である。
終わり
この「本流右股へ乗越す新徑である」から渋谷書策さんが道を付けて表尾根へ径路を付けたのが書策新道の始まりである。
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丹沢の山と谷、水無川本谷略図・登山地図帳 山と渓谷社編 昭和33年(1958)7月5日から引用 どうやらこの図 昭和25年発行の水無川本谷略図、坂本光雄氏の図の流用のようだ
鉱山道の記載はないが木ノ又大日へのルートは書かれている。セドノ沢の遡行図は無いが文章は書かれている。しかし鉱山の話は出てこない。但しそれらしき場所として「四米上の右壁には2つ大穴があって水が流れ、左からも2箇所から水が流れ出して、ちょっとおもしろいところだ」まさしくあのメジャーな鉱山跡だと思う。
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富士 丹沢 三ッ峠 現代登山全集8、創元新社 昭和36年(1961)10月31日から引用 水無川概念図には鉱山道と木ノ又大日に直登するルートが記載されいるが このセドの沢左股の文章に洞穴の記載がある。まさしくあのメジャーな鉱山跡だと思う。
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アルパインガイド 昭和45年版(1970)水無川本谷と大倉尾根 羽賀正太郎著から引用 カイサク茶屋と木ノ又小屋が渋谷書策さんの持ち物となっている。
セドノ沢の項には鉱山のことは一切かかれれいない。ただ遡行図に石垣が出て来る。白竜の滝も出てこない。そして鉱山道の終点は木ノ又大日に直登するコースが書かれている。同じくアルパインガイド 昭和55年版 羽賀正太郎著には木ノ又大日に直登するコースの記載はないが政次郎尾根の記載が出て来る。このころになるとカイサク小屋に昇格。カイサク小屋と木ノ又小屋が渋谷書策さんの持ち物となっている。セドノ沢の項には鉱山のことは一切かかれれいない。ただ遡行図に石垣が出て来る。白竜の滝も出てこない。
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そのものずばりの記事(私が丹沢自然保護協会の機関誌に投稿したのが2006から2007年) アルペンガイド 丹沢 5 三宅岳著、山と渓谷社、2009年4月25日から引用 添付されている地図には書策新道の記載があるが、木ノ又大日に直登するルートは書かれていない。
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さて書策新道の紹介記事は、以下の本が最初で最後であろう。
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山小屋の主人がガイドする丹沢を歩く、 磯貝猛、皆方久美子著、山と渓谷社、1992年11月1日から引用 新道は書かれているのだが鉱山跡には触れられいない 渋谷書策さん76歳 |
最近の書策新道と鉱山跡が書かれている本は以下になる。と言っても6年前
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丹沢の谷 200ルート 後藤真一著、山と渓谷社、2017年6月10日 昔の鉱山坑口がある4条25mの滝と記載。 その上にも沢筋が書かれているので、あそこで終わりではないようだ。 |
地図
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明治二一年測量 昭和四年修正 昭和二〇年部分修正 昭和35年(1960)5月30日発行 地理調査所 木ノ又大日の途中まで径路がある。背戸の澤に鉱山記号は無い。 |
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昭和45年(1970)昭文社 国立公園協会編 丹沢大山 エリアマップ 政次郎尾根ルートは記載されているが書策新道は記載されていない。 木ノ又大日への直登ルートは記載されている。 |
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丹沢山塊 羽賀正太郎ら著 昭和47年(1972) 水無川詳細図 日地出版 F5木ノ又小屋直登ルートとF2上からの直登ルートが載っている。 現在の書策新道も水無川沿いルートの一部にF2に下りる踏み跡(獣道)がある |
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丹沢 1994年 昭文社 エリアマップ 書策新道が書かれているが木ノ又大日への直登ルートはない |
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ヤマケイ登山地図帳 10 山と渓谷社 1997年発行 書策新道が書かれているが木ノ又大日への直登ルートはない |
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東丹沢 登山詳細図 2012年 吉備人出版発行 書策新道は廃道扱い。もちろん木ノ又大日直登ルートの記載も無し |
書策新道は、1992年には開通しており2008年には標識もしっかりしていたようだ。
書策新道の後半部分を整備された渋谷書策さんは、2004年に書策小屋を降りて中川温泉にある老人ホームに入所 2009年93歳で大往生されている。
大日鉱山は、試掘届の登録年月から推定すると昭和8年(1933)登録番号試登151号で名和 皇氏らによって試掘が始められ昭和10年(1935)試登156号で堀井喜一氏らが同じ場所で試掘を引継して戦後廃坑となった。
昭和16年(1941年)の背戸の沢遡行図に大日鉱山の記号があるが、調べた限りでは昭和27年までは記録が無い。太平洋戦争は昭和16年(1941年)から昭和20年(1945年)まで続いたが、マンガン鉱は鉄を強くする作用があるので戦略物質として機密管理されていたようだ。
大日鉱山のあるセドノ沢は、戦略物質であるマンガンが採鉱されていたため、また発破を行なうためは、立ち入り禁止の措置が取られていた。本谷も立ち入り禁止の措置が取られていたと書いてある本もあり、それがために登山者が入れなかったのであろう。昭和初期の丹沢開拓期 今で言うところの表丹沢水無の沢は、見捨てられていた。と奥野氏は、「丹沢だより」401号「水無川本谷大滝の思い出」に書かれておられる。たぶんこれも見捨てられていた理由の一つであろう。
さて今回 木ノ又大日に登るルートが明治時代のころから脈々と登られていた形跡があることが裏付ける資料が見つかった。源次郎澤出合からの鉱山道が水無川に下りる地点から木ノ又大日直登ルートは何のために利用されていたのだろうか?
さて今回の山行はYAMAPにUpしてある。
ここでは、試掘跡もしくは採掘後埋もれてしまった坑道跡について説明したい。
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書策新道を登っていくと最初に出合う石垣の台地上の跡 |
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周辺の斜面の状態 石垣周辺を登ったが、これと言った試掘跡は見つからなかった。 画像でみると急斜面じゃないように見えるが実は急斜面 |
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周辺の斜面の状態 石垣周辺を登ったが、これと言った試掘跡は見つからなかった。 画像でみると急斜面じゃないように見えるが実は急斜面
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この後 書策新道は、沢を渡るとそこにまた石垣を積んだ台地上の部分がある。
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