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丹沢の鉱山跡を探る 東沢「丹沢鉱山」の怪

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最近は、忙しくもっぱらWebの閲覧をしていた。 ところが、不思議なことを見つけたので報告したい。                  2006年5月21日再発見の時の画像   1.奥まで続くレール 2.その手前 第二坑道分岐点前  3.さらに手前 第二坑道 分岐点 左から多量な土砂が流れこんでいる。 坑道から外を見たアングル 坑道入口(まだ看板は無い) 2006年6月11日 2回目の訪問   1.と同様なアングル 3.と同様なアングル 坑道入口に 看板をつけた 2006年12月28日 再訪 入口 から坑道」内部」を俯瞰 以上の画像を、よーく目に焼き付けて頂きたい。 なぜ、同じよなアングルの画像をUpしたかには理由がある。 以下のURLは、WEB検索で見つけたものであるので引用を許されたい。 (Google検索キーワード”丹沢””鉱山””東沢”期間指定2011/1/01~2011/12/31) ヤマレコ 日程 2011年10月29日 http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-145507.html 題:同角沢 (沢登り / 丹沢) 帰りに丹沢鉱山を訪問しているが、 写真60/68にトロッコの、輪軸がはっきり水没してい るのが判る。 shiroさんのページ 日程 2011年12月18日 http://shiro77.cocolog-nifty.com/kumo/2011/12/index.html 題:女郎小屋乗越を攀じ登る。 坑道奥に輪軸が見える。 丹沢の鉱山跡を精力的に探している knotさんのページ 一例目 東沢乗越~女郎小屋ノ頭~大タル丸~大タギリ(おまけ丹沢鉱山) 日程 2011年12月17日 http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-156511.html   写真29/34 坑道入口 アクリル板の下に注目 写真31/34 坑道内部 以下引用 よ~く見てもらおう・・・、 すでに台枠ははないが、 水中に、はっきりとトロッコの輪軸...

丹沢と私(哀悼 奥野幸道さま)

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始まり   私が山を登り始めたのは、たしか小学生の時だったと思う。最初は高尾山、次は高尾山から城山を経て相模湖だったと…思う。都内に住んでいたので、小さいときは、公害?で喘息で虚弱児童だった。そのため千葉にある養護学校(健康増進施設)に寄宿して数年間を過ごした。親は、たぶん体力をつけるため山に、つれて行ったんだろう。その頃の登山地図は日地と昭文社だった。紙の登山地図なので山行を重ねると折り目の部分が破れてしまったりしたものだった。親は山が趣味ではなく、子供に体力をつけるためハイキング程度の山行をしてくれたのだった。動機付けはしてくれたおかげでは、独学で単独行を始めた。 丹沢と私   どうゆう訳か、秩父、奥多摩、奥武蔵には嵌らず、丹沢に通いだした。その頃の丹沢のガイドブックは、ブルーガイドとアルパインガイド(現在はアルペンガイド)があり、それぞれ奥野幸道と羽賀正太郎であった。登り始めたころは、二ノ塔に月見山荘があり、塔ノ岳には日ノ出山荘が健在であった。手元にあるぼろぼろになったアルパインガイド23は1967年初版。今から44年前が発行と言うことは、11才の時から登っていたことになる。たぶんこのころは大山あたりから始めたのだろう。中学生になってから単独行が始まり休日前の小田急丹沢号22:45、23:15の2本の電車が出ていた。それに乗って夜行登山をしたような覚えがある。二ノ塔の月見山荘に泊まったときは、隣の部屋で夜通し大学生が麻雀をしていた記憶があり、朝食は、ご飯とさんまかば焼きの缶詰と薄い味噌汁であった。たしか葛葉川山荘と経営者が同じであった。渋沢は今のように開けていなく南口だけであり、バスの回転が大変だった覚えがあり、店先でわらじを売っていた。T字路になった先は商店街が続いていた。駅のT字路の角に、いろは食堂があった。丹沢湖も宮ケ瀬湖も出来ていなかった。中学生2年の初キャンプは小川谷出合で行い、途中雨に降られ養漁場の廃屋に逃げ込んで過ごした。たしか新松田駅には角に大きな本屋があった。なぜ初キャンプがメジャーな水無ではなくマイナーな玄倉の小川谷出合であったかは判らない。そのころ、小川谷山荘は営業していなく廃屋であった。 親と夏休みに日帰りで中川温泉に行ったときは、ボンネットバスで、細い道を落合橋まで下り、登り返して中川温泉に行った。  高校生になり、お決ま...

訃報  奥野幸道様 ご逝去

丹沢のガイドブックなどでお世話になった奥野幸道様が7月1日ご逝去されました。 奥野さんの家に直接電話をかけて確認しました。 お通夜・告別式は、親族だけで執り行うとのこと のちに 横浜山岳会、丹沢資料保存会などが主になり 偲ぶ会を開く予定 時期未定   奥野幸道さんのご逝去を悼み,謹んで哀悼の意を表します。

丹沢の鉱山跡を探る  資料編 鉱区 一覧

国会図書館・都立中央図書館・経済産業省・神奈川県立図書館等で 調査した神奈川県鉱区一覧年度別にまとめてをGoogleドキュメントにUpしました。 鉱区一覧年代別 https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=explorer&chrome=true&srcid=0B2ugjz7P0aVvZDNiYjdjMzctMWM1Yy00NGFiLTgxZDUtMWIyYzFmNDUzZmU5&hl=ja&authkey=CN-z6PQL 鉱区一覧面積ソート坪・アール・登録者名寄せ https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=explorer&chrome=true&srcid=0B2ugjz7P0aVvYWZkMWJjMTAtN2E2My00ZmNjLWJhYTEtZjMyODlkYzhkYWY0&hl=ja&authkey=CNne9mU 鉱区一覧ソート試掘・採掘・登録者名寄せ https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=explorer&chrome=true&srcid=0B2ugjz7P0aVvYmM4OThkY2ItNDY2Zi00NTlkLWExMmItMTcxNzNhMDNlMWEw&hl=ja&authkey=CLbCqr0K 一部ソートを行い分類してます。 鉱区の面積は戦前は坪、戦後はアールになっています。 このように神奈川県では、明治44年から昭和45年まで重複を含めて289件 ほどの登録がありました。しかしこの鉱区一覧から場所を特定するのは、 鉱区謄本原簿が無くなっている今、無理でしょう。 辛うじて紹介できたのが 「丹沢の鉱山跡を探る」に記載された場所になります。昭和45年以降の鉱区 一覧は調査しておりません。 東京鉱山監督局管内 鉱区一覧(明治 44 ~大正 15 年、昭和 2 ~ 16 、 24 、 28 、 32 、 36 、 39 、 42 、 45 年)

丹沢の鉱山跡を探る エピローグ 18  丹沢だより443号 2007/7

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丹沢の鉱山跡を探る 18              10.エピローグ   丹沢のことをもっと知りたい!と丹沢関係の書籍を以前から買い集めていた。それらの、古い丹沢開拓期の本を読むと現在との違いも判り、はたして今どうなっているかを探りたくなった。最初は、前尊仏様を取り上げてみた。結構うまく調べられて、実際の玄倉 前尊仏様・塔ノ岳の尊仏岩跡にもお目にかかれることができた。次は何を調べようかと考えた先に、丹沢の鉱山があった。しかし鉱山の稼動は、自然破壊の最たるものである。  母なる大地を穿つ穴。古くは足尾銅山の鉱毒事件などがある。はたして自然保護協会誌に投稿して良いものだろかと迷った。しかしながら、鉱物の恩恵を我々がこうむっていることは確かだし、まだ、だれも手を付けてない事項でもある。深山の奥に打ち捨てられた廃坑があることなぞ、ちょっぴりロマンを感じてしまう。迷った理由はもう一つあり、実際に探し出すことができるかが判らなかった。地質学など手に染めたこともなく、ゼロからの出発であった。Webで情報を収集すると神奈川県は、鉱山の空白地帯ということで、鉱山は無いと言うのがもっぱらの見解だった。  最初の鉱山(渋沢・大日・砥石)は、お馴染であったので簡単に探れた。当初は、この三箇所で終わりにするはずであった。東沢の信玄金山の跡については、伝承であろうと信じてはいなかった。この過程で平塚博物館発行「自然と文化」の神奈川県内産の鉱物の記事にぶつかった。ここには丹沢の鉱山が10箇所紹介されていた。「丹沢にも鉱山があったんだ!」と言うのが当初の認識だった。  なかなか見つけられなかったのが、玄倉・東沢源頭部の丹沢鉱山(信玄時代の金山と言われていた)だった。これを探し当てた途端、その後は、向こうから呼びかけてくるようになった。坑道に潜んで待ち構えていた何かが、取り憑いたのか?「こっちだよー、こっちだよー」とあったと言われている場所に近づくと、吸い寄せられるように見つかった。とうとう鉱産誌のバイブル・日本鉱産誌に書かれていた丹沢の鉱山と、それを引用して書かれた平塚博物館が刊行している「自然と文化」に網羅されていた丹沢の鉱山を全て探ることができた。また玄倉銅山と思われる坑道も見つけられた。そして金山澤鉱山は、奥野氏からの情報で調べることができた。  丹沢の地形・地質は、第三紀中新世...

丹沢の鉱山跡を探る  17  丹沢だより442号 2007/6( 金山澤鉱山)

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丹沢の鉱山跡を探る 17                                 金山澤 第一坑口             9.金山澤鉱山(ここだよ!と呼ぶ声が聞こえる)  この連載を始めてから、しばらく経って奥野幸道氏から叱咤激励のお手紙を戴き、止むに止まれなくなりました。今回 世附流域を調べる旨、お知らせしたら重要なキーが記載された文献を戴きました。この項は、その文献によって糸口がほぐれたものです。その文献とは、山と渓谷64号 昭和15年p114清水長輝 丹澤・菰釣山附近です。以下引用  鑛山跡 山神峰の下で分岐して水ノ木へ下る山伏徑路は、すぐ下で親不知と云はれる危い棧道になるので、近時菰釣寄りの尾根を少し迂回するやうにつけられた。徑路を僅か下ると次の一二二〇米圏峰との鞍部は大楢と呼ばれて、今は炭焼がはいつてゐる。恰度ここから眞西にあたって金山澤の一一〇〇米あたりに坑の跡があるらしい。徳川中期頃から銅を堀つたやうで、明治中頃までは澤に面して石臼の残骸が列んでゐたさうだ。日露戦争の頃鐵板や何かかつぎ出して賣つたと云う話も残ってゐる。 引用終わり どうやら これは金山澤鉱山らしい…… 「金山澤鉱山」浅瀬入口から徒歩5時間30分 場所:金山沢沖ビリ沢付近の支流   国会図書館の近代デジタルライブラリーで「鉱区」で検索すると明治44年1月1日発行東京鉱山監督署管内鉱区一覧の内容がWebから読める。神奈川県丹沢での採掘場所は、世附・金山沢で鉱山名は金山澤鉱山であった。鉱種は銀と銅で登録されており、試掘では無く本格的に採掘された鉱山であった。登録者は長田勝光氏で明治44年から大正6年まで登録されている。明治44年以前の鉱区一覧は見つけることができなかったが、それ以前から採掘されていたようだ。これについては後で述べる。また長田氏は、南都留郡在住なので山梨県側からの入山であろう。場所は、地名から察すると水ノ木から入る金山沢に違いない。  奥野氏から戴いた文献もこの辺りを示唆している。この鉱山は、日本鉱産誌や平塚博物館「自然と文化」には書かれていない鉱山であった。別の資料では、水の木休泊所より山伏峠へ約1.5km金山沢を遡行し右岸に硫化鉄鉱を含む千枚岩質粘板岩の露頭があるとのこと。硫化鉄鉱があると言うことは「焼け」があることを示す。神奈川県自然...

丹沢の鉱山跡を探る  16  丹沢だより441号 2007/5(鎌田鉱山)

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丹沢の鉱山跡を探る 16              8.鎌田鉱山(はたして金はあったのか?)             コンクリートブロックで塞がれた鎌田鉱山抗口全貌                               ふさがれている鎌田鉱山上部の隙間から覗く    わずかな隙間からカメラを差し入れた焼けの兆候の岩石が転がる           明治24年発行二万分の一山伏峠の山神様付近 昭和4年御正体山に出てくる山神様記号 奥野CDより鉱山部分の抜粋 「鎌田鉱山」浅瀬入口から徒歩2時間30分 場所:水ノ木下流・山神沢出合  場所は、山神沢出合付近にあると言われている。山神沢は、山神峠から悪沢に方面に流れる沢が地図上に明記されている。しかし、この山神沢は山神峠から水ノ木下流の世附川方面に流れ込む沢である。この山神沢上流へ辿ると、山神様に出逢える。昭和7年発行二万五千分の一地図御正体山には神社記号が示されているので、昔は有名な存在だったのであろう。また明治24年発行の二万分の一地図山伏峠には、悪沢からこの峠を通り、水ノ木までの経路が示されている。(しかし神社記号は無い)昭和10年発行の山と渓谷33号特集富士山と繞る低山 水ノ木澤から菰釣シ山 加藤秀雄によると以下引用 亦古く甲相の聯路であったとも傳へ現在の廣河原から水ノ木へ至る道はそう古いものではなく、その以前は峰坂峠(柳島峠)と世附峠の中間、アシ澤峠を降りワラ澤を溯り山神に出て西腹を捲いて行った。今僅かに俤を止めるのみで全くの廢道となつてゐるがこれを横引横道と云った。折り口は丸高の下手邊で道が蛇行してついてゐるから織戸、或は折戸と當てらる地名がの殘つて居る譯である。 引用終わり 次回の金山澤鉱山が採掘されていた時期は、明治から大正にかけてなのでこの経路を使って物資が運ばれていたのだろうか?  横浜山岳会編「丹沢」には以下引用 浅瀬から暫く行くと軌道は一度右岸に移って、対岸に悪沢部落や植林の苗畠などを見ながら行き、再び左岸に渡りかえして広河原に着く。営林署の小屋のあるところで軌道はジグザクに高見へ上がって行く。左下に土沢の合流するのを見る。軌道は本流について登って行く。はるか左下に淙々たる流れを見ながら山腹を搦む軌道を辿る。やがて右側に鎌田鉱山の家が二、...