丹沢の鉱山跡を探る 12  丹沢だより437号 2007/1(玄倉銅山 検証)

丹沢の鉱山跡を探る 12             



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4-4.「玄倉の幻の銅山跡」玄倉は、鉱山町(村)であったようだ

 「丹沢だより431~435号」にかけて、丹沢鉱山(信玄時代に採掘された?)、玄倉鉱山、坂口鉱山?玄倉銅山?など色々探ってきた。また436号では、玄倉周辺の鉱山に関係していると思われる事例も羅列してきた。今号は、鉱山に係わると思われる玄倉の事例と、まとめとして、各事例の繋がりを地図に書き入れて見た。地図を見ながら過去の投稿記事を見ていただくと相互の関係が明らかになると思う。

 添付図は、昭和7年発行の大日本帝国陸地測量部「中川」2万5千分の1図に鉱山関係の事例と、その位置関係および、それらを取り巻く経路を書き入れたものだ。現在の「中川」と比較して、桧洞丸周辺(特に経角沢源頭部)が大まかに作図されているのが判る。そのほかの地形も現在の地図とは違っているので、「事例の相互位置関係を知ることを目的として」のみ見てほしい。ちなみに中ノ沢休泊所とユーシン休泊所が記入されており、玄倉林道は、まだ出来ていない。玄倉川の立間大橋から上流には堰堤は、出来ておらず丹沢黒部の様相を呈している。

 玄倉から中ノ沢休泊所を経由して欅平。山神峠を経由してユーシン休泊所。山ノ神から玄倉川へ降り、中ノ沢休泊所までの経路は、元々から記入されれている。玄倉から前尊仏様を経由して谷戸ノ影沢出合までの経路は、明治25年発行の2万分の1地図「塔嶽」を参考にして書き入れた。ちなみに「塔嶽」には、中ノ沢休泊所まで。山神峠を経て逆木までの経路は、すでに存在している。女郎小屋ノ頭から出合までの経路は、足柄之文化2号「信玄の金山をたずねて」の記事を参考に、現在のWebで調査した経路を踏まえ書き入れた。玄倉鉱山から丹沢鉱山までの経路は、現代登山全集8 富士丹沢三ッ峠の奥野氏の地図を参考に書き入れた。

注意 この添付図に書かれている場所は、登山地図では赤破線で示されている難路や地図に記載のない経路を辿って行きます。この添付図を参考にして行動した結果、想定できるリスク・想定できなかったリスクにより、あなたの生命に危険を及ぼす事象が発生する可能性があります。鉱山位置および経路は、相互関係を知るために書き入れてありますので、曖昧です。

☆個々の事例を結ぶ網目のような経路の繋がり(前号記事と一部重複)

1)玄倉⇋前尊仏様⇋谷戸ノ影沢

明治25年に発行された2万分の1「塔嶽」に書かれていた経路で「丹沢だより419~423号の前尊仏様を探す」で述べた経路。玄倉の八幡神社から前尊仏様を通って谷戸ノ影沢出合に降りてきているトラバース経路は、出先の鉱山への経路だったかもしれない。

2)玄倉⇋中ノ沢休泊所⇋欅平⇋中ノ沢乗越

 玄倉から中ノ沢休泊所を経由して東沢出合に通じる中ノ沢経路(別名信玄ノ隠シ道)、この経路の先には、信玄の隠し金山(多分、違うと思う)があったと言われている東沢(金山沢)、はたまた小川谷上流の金沢という沢の名前がある。御料林経路の一部と考えてもおかしくはないが、地名考証から考えると鉱山道であった可能性もある。前号では、小川谷上流部分の銅鉱脈露頭の存在を明らかにしたが、坑道を掘らなくても露天掘の可能性もあり、その場合中継地点として欅平の存在は、大きなものとなる。小川谷左岸に出合う長ザレ沢右岸には、石積の跡も発見できるので、ここにも生活の跡があったようだ。中ノ沢乗越を越えて経角沢を下れば、水晶や輝水鉛鉱が取れたと言われている桧洞上流部分(別名桶棚沢)に簡単に行くことがでる。

3)玄倉⇋山神峠⇋芋の沢出合⇋芋ノ沢頭⇋中ノ沢休泊所

山神峠から分かれて中ノ沢休泊所に至る経路は、御料林経路とも呼ばれている。中ノ沢休泊所と山神峠の先には、逆木を経由してユウシン休泊所があることを考えれば、林業のために開かれた経路と考えてもおかしくはない。しかし、芋ノ沢の地名考証、赤棚の旧抗跡、前々号で見つけた坑道跡や玄倉川を遡れば女郎小屋沢出合という事例を考えれば、鉱山を繋ぐ連絡路と見てもおかしくはないだろう。中ノ沢休泊所の玄倉寄りには、弥七平があり鉱山跡と思える大穴があったそうだ。さらに中ノ沢休泊所からは、穴ノ平沢を経由して箒杉までの経路が、かつて存在しており箒沢から玄倉方面に出かけるときは、大仏、神縄経由よりも早く着いたそうである。

 4)東沢源頭部の鉱山跡⇋女郎小屋沢出合

 東沢源頭部の鉱山跡から女郎小屋沢出合までは、前号で述べたように尾根を伝わって簡単に行くことができる。女郎小屋沢出合から下流には鉱山に関係している事例も多くあることから、ここにもし女郎小屋があったとてもおかしくはない位置である。なぜこの位置に女郎小屋があったと仮定できるのだろうか?欅平にあったほうが便利なのではないか!それは玄倉からの物資の補給を考えてみれば判る。明治25年に発行された2万分の1「塔嶽」の地図をみると玄倉から山神峠に行く経路は、生活道路として寄に抜ける道路の一部を利用し、途中塔ノ平で分かれて山神峠に向かっている。物資の輸送経路からみれば、欅平に設けるより簡単に物資が運べて鉱山にも近い、あの場所に設けたほうが利便性は高い。また史実上の玄倉の銅山が玄倉川沿いにあったと仮定すると、やはりあの場所がそうであったと思える。

 5)山腹をトラバースする経路

 奥野幸道氏(私信)によると大昔の生活経路は、川沿いを通らないでわざわざ山の中腹を通っていた例があるそうだ。高野鷹蔵氏らの(武田博士も同行された)塔が岳山行で玄倉へ行くのも、山北から大野山を経由していたことで伺える。また玄倉八幡神社から前尊仏様経由で谷戸ノ影沢出合に行くのにも、玄倉川沿いに経路があるのにわざわざ玄倉ノ野の中腹をトラバースしている。欅平に向かう経路、表丹沢の大日鉱山に向かう経路や世附の悪沢から山神峠を経て水の木も山腹を大きくトラバースしている。

☆玄倉にある八幡神社の湯花祭の神事

 金属が溶けた状態のことを湯と呼ぶ。またその表面に皮膜ができることを花が咲くという言い回しが冶金ではあるそうだ。坂本光雄氏によると玄倉に湯花祭があり、尊仏様の祭りの一環として7月17に祭礼が行なわれるそうである。山北近辺の湯花祭は、色々なところで行なわれていたが、その一つ川西の金山の湯花祭があった。ここには玄倉と同じ八幡神社が祭られていたそうである。先の開成町史研究・玄倉銅山の項目で銀山が見つかった場所が川西であり、金山平の地名があることから鉱山や金属に関係する何かがあったようだ。他の山北町内で湯花祭りが行われていた場所は、深沢の金山神の湯立(湯花)、平山の熊野神社の湯花、山市場の秋祭(湯花)、世附の湯花、中川の秋祭(湯花)、用沢の八幡様湯花である。しかし、これらの場所に鉱山や金属に関する何かがあった確証はない。

☆玄倉では、江戸時代 回り舞台などがあり芸能が盛んであった

 日本鉱山史の研究によると、鉱山労働者の慰労のため、鉱山町には役者小屋が建つことが多かったそうだ。神奈川新聞発行の「丹沢湖」を読むと「塔ノ岳が源流の玄倉川」の項目には以下引用、住人たちはいつのまにか“芸能種族”といった性格を持つようなった。略 特に人形芝居は、小田原の桐座で1ヶ月もの長期興行をしたほどの人気を呼び、明治初期まで部落の中に回り舞台があったと言われている。引用終わり 江戸時代後期 鉱山が衰退し、役者がそのまま、土地に定着して帰農したため、その風習が回り舞台などの芸能の風習として残った可能性もある。

☆村の形態が、鉱山町の形態に似ている

 玄倉の村は、小菅川を渡った山の斜面に点在しており村の入口には、結界を示す道祖神が祭られ、村の一番高い場所に氏神様である八幡神社が鎮座している。そして、神社の背後にある経路をたどると、一方は山神峠に続く。その先には女郎小屋沢があり、芋ノ沢出合の前々号で見つけた坑道、そして赤棚の旧鉱跡がある。

 もう一方は、前尊仏岩を経由して、谷戸ノ影沢出合に下りてきている。谷戸ノ影沢の先(小畑堰堤手前)には、前々々号で見つけた坑道がある。このような形態は、湯之奧金山遺跡の湯之奧村と非常に良く似ている。こちらは金山遺跡として調査報告書がでており、その報告書を読むと玄倉との類似点が多くある。ただこのような形態が、この時代の一般的な村落の形態かもしれないので、さらに調査が必要であろう。

 足柄之文化の「西丹沢の集落とその社会構造」によれば、玄倉の集落の構造を調べると、家が建っている場所によりグループ分けができるそうである。世附は、生産的な部落で、三保地区の玄倉の奥に、枝村として白井平を開き、これが解散して一部は中ノ庭(荒井沢)、方ノ口にもどり一部は玄倉に入ったそうである。白井平から玄倉に移り住んできた人の、氏神様は、熊野権現であった。熊野権現は、修験道に通じるものがあり、妙法銅山との関連もあることから、祖先はなんらかの鉱山に関係していたのかもしれない。また白井平は、世附の飛び地であったことから世附に住んでいた人々の屋号を調べると「かじや」となっている家があり、何かの因縁を感じる。ちなみに玄倉に元から住んでいた人の屋号には、鉱山関係と思われるものはない。

☆まとめ

 玄倉と玄倉周辺での鉱山に関する事例を探してみたら、結構多くのことを知ることができた。女郎小屋沢の言われは、「女郎小屋があった」と見たほうに傾いた。(丈量ではない)鉱山の事例は、あまり大規模なものはなく地元の産業として根付いたものはない。そのため地元では、意識にのぼらずに忘れ去られたのであろう。しかし、風習としては、一部は根付いたものもあるようである。

 忘れさられては、再発見され。の繰り返しのようだ。周辺の事例から考えると鉱山への補給基地としての玄倉の存在は、確かにあった。史実としての玄倉銅山があったことは確かである。玄倉周辺で銅の精錬(荒銅まで)が行われていれば、その過程で発生するカラミ(金クソ)が多量に捨てられているはずである。それを探し出せば銅山の場所の特定は可能だろう。金属探知機が手に入れば探ってみたい場所は、まだ山ほど残されている。

次回5 高松鉱山もしくは稲郷鉱山または三保鉱山か山北鉱山

参考文献(4-2・4-3・4-4)順不同

 諏訪多栄蔵・山口耀久・山崎泰治他編,1967:現代登山全集8 富士丹沢三ッ峠 高野鷹蔵氏登山記「塔が岳」


大日本帝国陸地測量部,明治25年出版:塔嶽 2万分の1


大日本帝国陸地測量部,昭和7年出版:中川 2万5千分の1


坂本光雄,1934:山と渓谷28号「丹澤玄倉川と周圍の山々」67-75、山と渓谷社


熊井勝三郎,1935:山と渓谷33号「檜洞丸あたり」139-142、山と渓谷社


神奈川県,1948:資源調査報告書34-50、神奈川県


若尾五雄,1994:黄金と百足 鉱山民俗学への道,人文書院


湯之奥金山遺跡学術調査団編,1992:山梨県西八代郡下部町湯之奥金山遺跡学術調査報告書


 加藤栄治ら,1959:足柄之文化2号 40-42、 信玄の丹沢金山をたずねて,山北町地方史研究会


 瀬戸貞夫,1970:足柄之文化8号 1-28、 西丹沢の集落とその社会構造,山北町地方史研究会


瀬戸貞夫,1976:足柄之文化10号 30-59、 西丹沢の集落とその社会構造(続),山北町地方史研究会


 池谷嘉徳,1981:足柄之文化13号 92 西丹沢の金鉱, 山北町地方史研究会


 池谷嘉徳,1989:足柄之文化18号 68-83、 玄倉史話, 山北町地方史研究会


 小木満,1992:丹沢だより269号 ユウシン地名考(下),丹沢自然保護協会


 小木満,1994:丹沢だより298号 ユウシン地名考あれこれ(4),丹沢自然保護協会


 小木満,1994:丹沢だより299号 ユウシン地名考あれこれ(5),丹沢自然保護協会


奥野幸道,2004:丹沢だより409号 武田信玄の金山,丹沢自然保護協会


 福谷豊治,2005:丹沢だより419~423号 玄倉の前尊仏様を探す,丹沢自然保護協会


神奈川県,1967:山北町森林基本図5千分の一地図 19-5,19-6,神奈川県


小葉田敦,1969:日本鉱山史の研究,岩波書店


神奈川新聞編集局,1978:丹沢湖,神奈川新聞


高田稔,1988:開成町史研究2、1.代官・蓑笠之助正高の研究(2)銅山の開発と鋳銭,文化財保護委員会


吉田喜久治,1983:丹澤記,岳書房


山北町編,2003:山北町史 史料編 近世,神奈川県山北町


Web参照 女郎小屋沢ノ頭からの経路


 S-OKさん:ようこそ!山へ!!、Seiji Andoさん:丹沢写真館、M-Kさん:僕の山紀行

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