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丹沢の鉱山跡を探る エピローグ 18  丹沢だより443号 2007/7

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丹沢の鉱山跡を探る 18              10.エピローグ   丹沢のことをもっと知りたい!と丹沢関係の書籍を以前から買い集めていた。それらの、古い丹沢開拓期の本を読むと現在との違いも判り、はたして今どうなっているかを探りたくなった。最初は、前尊仏様を取り上げてみた。結構うまく調べられて、実際の玄倉 前尊仏様・塔ノ岳の尊仏岩跡にもお目にかかれることができた。次は何を調べようかと考えた先に、丹沢の鉱山があった。しかし鉱山の稼動は、自然破壊の最たるものである。  母なる大地を穿つ穴。古くは足尾銅山の鉱毒事件などがある。はたして自然保護協会誌に投稿して良いものだろかと迷った。しかしながら、鉱物の恩恵を我々がこうむっていることは確かだし、まだ、だれも手を付けてない事項でもある。深山の奥に打ち捨てられた廃坑があることなぞ、ちょっぴりロマンを感じてしまう。迷った理由はもう一つあり、実際に探し出すことができるかが判らなかった。地質学など手に染めたこともなく、ゼロからの出発であった。Webで情報を収集すると神奈川県は、鉱山の空白地帯ということで、鉱山は無いと言うのがもっぱらの見解だった。  最初の鉱山(渋沢・大日・砥石)は、お馴染であったので簡単に探れた。当初は、この三箇所で終わりにするはずであった。東沢の信玄金山の跡については、伝承であろうと信じてはいなかった。この過程で平塚博物館発行「自然と文化」の神奈川県内産の鉱物の記事にぶつかった。ここには丹沢の鉱山が10箇所紹介されていた。「丹沢にも鉱山があったんだ!」と言うのが当初の認識だった。  なかなか見つけられなかったのが、玄倉・東沢源頭部の丹沢鉱山(信玄時代の金山と言われていた)だった。これを探し当てた途端、その後は、向こうから呼びかけてくるようになった。坑道に潜んで待ち構えていた何かが、取り憑いたのか?「こっちだよー、こっちだよー」とあったと言われている場所に近づくと、吸い寄せられるように見つかった。とうとう鉱産誌のバイブル・日本鉱産誌に書かれていた丹沢の鉱山と、それを引用して書かれた平塚博物館が刊行している「自然と文化」に網羅されていた丹沢の鉱山を全て探ることができた。また玄倉銅山と思われる坑道も見つけられた。そして金山澤鉱山は、奥野氏からの情報で調べることができた。  丹沢の地形・地質は、第三紀中新世

丹沢の鉱山跡を探る  17  丹沢だより442号 2007/6( 金山澤鉱山)

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丹沢の鉱山跡を探る 17                                 金山澤 第一坑口             9.金山澤鉱山(ここだよ!と呼ぶ声が聞こえる)  この連載を始めてから、しばらく経って奥野幸道氏から叱咤激励のお手紙を戴き、止むに止まれなくなりました。今回 世附流域を調べる旨、お知らせしたら重要なキーが記載された文献を戴きました。この項は、その文献によって糸口がほぐれたものです。その文献とは、山と渓谷64号 昭和15年p114清水長輝 丹澤・菰釣山附近です。以下引用  鑛山跡 山神峰の下で分岐して水ノ木へ下る山伏徑路は、すぐ下で親不知と云はれる危い棧道になるので、近時菰釣寄りの尾根を少し迂回するやうにつけられた。徑路を僅か下ると次の一二二〇米圏峰との鞍部は大楢と呼ばれて、今は炭焼がはいつてゐる。恰度ここから眞西にあたって金山澤の一一〇〇米あたりに坑の跡があるらしい。徳川中期頃から銅を堀つたやうで、明治中頃までは澤に面して石臼の残骸が列んでゐたさうだ。日露戦争の頃鐵板や何かかつぎ出して賣つたと云う話も残ってゐる。 引用終わり どうやら これは金山澤鉱山らしい…… 「金山澤鉱山」浅瀬入口から徒歩5時間30分 場所:金山沢沖ビリ沢付近の支流   国会図書館の近代デジタルライブラリーで「鉱区」で検索すると明治44年1月1日発行東京鉱山監督署管内鉱区一覧の内容がWebから読める。神奈川県丹沢での採掘場所は、世附・金山沢で鉱山名は金山澤鉱山であった。鉱種は銀と銅で登録されており、試掘では無く本格的に採掘された鉱山であった。登録者は長田勝光氏で明治44年から大正6年まで登録されている。明治44年以前の鉱区一覧は見つけることができなかったが、それ以前から採掘されていたようだ。これについては後で述べる。また長田氏は、南都留郡在住なので山梨県側からの入山であろう。場所は、地名から察すると水ノ木から入る金山沢に違いない。  奥野氏から戴いた文献もこの辺りを示唆している。この鉱山は、日本鉱産誌や平塚博物館「自然と文化」には書かれていない鉱山であった。別の資料では、水の木休泊所より山伏峠へ約1.5km金山沢を遡行し右岸に硫化鉄鉱を含む千枚岩質粘板岩の露頭があるとのこと。硫化鉄鉱があると言うことは「焼け」があることを示す。神奈川県自然

丹沢の鉱山跡を探る  16  丹沢だより441号 2007/5(鎌田鉱山)

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丹沢の鉱山跡を探る 16              8.鎌田鉱山(はたして金はあったのか?)             コンクリートブロックで塞がれた鎌田鉱山抗口全貌                               ふさがれている鎌田鉱山上部の隙間から覗く    わずかな隙間からカメラを差し入れた焼けの兆候の岩石が転がる           明治24年発行二万分の一山伏峠の山神様付近 昭和4年御正体山に出てくる山神様記号 奥野CDより鉱山部分の抜粋 「鎌田鉱山」浅瀬入口から徒歩2時間30分 場所:水ノ木下流・山神沢出合  場所は、山神沢出合付近にあると言われている。山神沢は、山神峠から悪沢に方面に流れる沢が地図上に明記されている。しかし、この山神沢は山神峠から水ノ木下流の世附川方面に流れ込む沢である。この山神沢上流へ辿ると、山神様に出逢える。昭和7年発行二万五千分の一地図御正体山には神社記号が示されているので、昔は有名な存在だったのであろう。また明治24年発行の二万分の一地図山伏峠には、悪沢からこの峠を通り、水ノ木までの経路が示されている。(しかし神社記号は無い)昭和10年発行の山と渓谷33号特集富士山と繞る低山 水ノ木澤から菰釣シ山 加藤秀雄によると以下引用 亦古く甲相の聯路であったとも傳へ現在の廣河原から水ノ木へ至る道はそう古いものではなく、その以前は峰坂峠(柳島峠)と世附峠の中間、アシ澤峠を降りワラ澤を溯り山神に出て西腹を捲いて行った。今僅かに俤を止めるのみで全くの廢道となつてゐるがこれを横引横道と云った。折り口は丸高の下手邊で道が蛇行してついてゐるから織戸、或は折戸と當てらる地名がの殘つて居る譯である。 引用終わり 次回の金山澤鉱山が採掘されていた時期は、明治から大正にかけてなのでこの経路を使って物資が運ばれていたのだろうか?  横浜山岳会編「丹沢」には以下引用 浅瀬から暫く行くと軌道は一度右岸に移って、対岸に悪沢部落や植林の苗畠などを見ながら行き、再び左岸に渡りかえして広河原に着く。営林署の小屋のあるところで軌道はジグザクに高見へ上がって行く。左下に土沢の合流するのを見る。軌道は本流について登って行く。はるか左下に淙々たる流れを見ながら山腹を搦む軌道を辿る。やがて右側に鎌田鉱山の家が二、

丹沢の鉱山跡を探る 15 丹沢だより440号 2007/4(山北鉱山)

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丹沢の鉱山跡を探る 15  丹沢だより440号  2007/4                                       山北鉱山抗口                       山北鉱山内部(露天掘りに近い)                            これから続く、三連載は2007年3月17~18日世附地区を探索した時の記録である。奥野幸道氏から紹介された文献及び「丹沢今昔」、佐藤芝明氏の三部作により鉱山跡を探る糸口を見つけることができた。その鉱山とは、山北鉱山、鎌田鉱山、金山澤鉱山である。 7.山北鉱山  「山北鉱山」浅瀬入口から徒歩2時間30分 場所:広河原付近   資料によると、世附の奥 広河原の浅瀬刑務所付近に鉱物の露頭があるとのこと。どうやら、その場所が山北鉱山らしい。目標は、浅瀬刑務所だが丹沢に刑務所があったことなど聞いたことも無く、またこの情報には、浅瀬と広河原の両地名の混同もある。そして山北町史なども調べてみたが、書かれていなかったので、初めは間違いだろうと思っていた。しかし丹沢の今昔と言えば「丹沢今昔」。早速調べると、「丹沢今昔」余話になんと受刑者が炭焼きを行なっていたことが書かれていた。実際は刑務所では無く、構外作業のための三保製炭作業所が置かれていた。以下引用 昭和20年9月初め、横浜刑務所拘置監は戦犯等収容のため連合軍に接収され……過剰拘禁の解消、不就労者の解消、食料・生活資材の自給等を目的とする構外作業が積極的に行なわれ、当初においても昭和20年代始めから、泊込三箇所(箱根農場、三保製炭作業所、浦賀漁労隊)、通役一箇所の構外作業に受刑者を従事させた。 引用終わり。奥野氏は、「丹沢今昔」の取材で世附川を遡ったおり、この作業所跡を探したが、悪沢付近ではないか?との見当をつけたのに留まった。現在 悪沢出合には廃屋(三保山荘)がある。  世の中には、色々な図書館がある。犯罪者・非行少年の処遇や、犯罪の予防に関わる分野を中心にした、刑事政策・矯正に関しての専門図書館(矯正図書館)を見つけた。Webから検索することも可能で、奥野氏が参照された横浜刑務所落成記念誌も所蔵されていた。さらに検索をかけると竣工50年史が見つかった。早速調べてみると、以下引用 横浜刑務所の構外作業 昭和22年4月10日

丹沢の鉱山跡を探る 14  丹沢だより438号 2007/3 (三保鉱山)

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丹沢の鉱山跡を探る 14                                      ベスブ石の集積された穴 ベスブ石の集積 珪ニッケル石か? 三保鉱山があったといわれる看板付近 磁鉄鉱の鉱石か?                                                                                 6.三保鉱山  「三保鉱山」西丹沢自然教室から徒歩1時間30分 場所:白石滝下流左岸?  場所は、白石沢にあると言われている。白石沢は、変成岩や大理石の産出などで有名だ。また学術的に興味ある変成鉱物が色々産出されており、一部の鉱物は神奈川県の天然記念物に指定されている。そして神奈川県における鉱物の宝庫と言われている。 どうやらこの同じ場所に鉄鉱が産出していたようだ。1964年発行の丹沢大山学術調査報告書第1部丹沢山塊の地質p43,2鉱物(1)白石沢、ザレの沢 図1・17(ロ)には鉄鉱の旧坑があるとされている。雑誌「地学の友」には、中学生の生徒作品として父親に連れられて鉱物採集に行った作文があった。これによると鉱物産地への案内役は、箒沢の佐藤浅次郎氏であったそうだ。奥野氏の「丹沢今昔」や「丹沢だより」の記事で「浅じい」として親しみを込めて呼ばれていた丹沢の生き字引であった人である。以下引用 二ヶ所程大きな大理石の脈が露出している澤路を下ってから又細い山路にかかった。はるか下の方から瀧の音も聞こえて來た。約60メートル位降りると白石澤の舊産池へ達した。がこの産地も付近で鐵鑛が試掘され、その捨石のズリでほとんど埋まっていた。 引用終わりこれによると沢筋では無く、だいぶ上の方に採掘場所はあったようだ。また山本氏の短報以下引用 昭和59年末、スカルン鉱物で知られる西丹沢の白石沢にある三保鉱山へ行ってみた。バスの終点のホーキ沢を過ぎ、自動車道路の終点白石沢キャンプ場から1km弱、幾つ目かの砂防ダムを越す地点で登山道のすぐ右側に、磁鉄鉱の貯鉱と鉄製バスケットが残されている。中略 対岸崖上の抗口は道も消えて到達できず、基の産状を知り得ないが… 引用終わり。これによると登山道の対岸、すなわち右岸となるが、どうやら前述の2つとは違う場所のようだ。そして丹沢の情報と言えば「丹沢だより」創刊

丹沢の鉱山跡を探る 13  丹沢だより438号 2007/2(稲郷鉱山・高松鉱山)

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丹沢の鉱山跡を探る 13              稲郷鉱山露頭 高松鉱山うずまった抗口 5.高松鉱山と稲郷鉱山   丹沢山塊では、よくマンガン鉱が産出していた。「丹沢だより428号」で述べた水無川の大日鉱山は、マンガン鉱の鉱山であった。今回探る高松鉱山(高松山鉱山と書くのは誤り)、稲郷鉱山は、ともに露天掘でマンガン鉱を産出していた。  稲郷鉱山は、登山ガイドブックには、断片すら書かれていたことは無い。しかし高松鉱山のものと思われる作業の記事は、少しだが書かれている。昭和16年発行「丹沢山塊」ハイキングペンクラブ編 第六天-高松山‐八町の項目以下引用 之は虫澤への峠越えの主要路であるが、現在ある作業の爲、危險信號の出た場合は通行禁止となる。道は地圖通りジグザグを切って稍右寄りに登り着いたところは△568.9米、第六天の西鞍部である。引用終わり。この危険信号とは、たぶん露天掘の発破合図の事であろう。(八町は原文のまま) 写真内容:左・赤鉄鉱(高松産)、中・マンガン鉱(稲郷)、右・マンガン鉱(高松      マンガンの含有率に比例して発泡度合が違う 高松産はマンガン含有率が高い  今回は、マンガン鉱を探すため10%過酸化水素水を持参した。小学校の理科の実験で使った、オキシフルの濃い物と思っていただきたい。二酸化マンガンにオキシフルをかけると、オキシフルが分解して酸素の泡が出る。この反応を利用してマンガン鉱を鑑別しようという目論見である。マンガン鉱の形態は色々あるが、酸化物型が多いようであり、また酸化物でなくても表面が酸化されて微量の二酸化マンガンが出来ているはずである。微量の二酸化マンガンがあれば触媒作用で分解して、発泡するであろう。他の金属酸化物(鉄)でも、過酸化水素水は分解されるが、二酸化マンガンとでは桁違いに分解のスピードが遅い。事前の大日鉱山から採取した鉱物で実験したところ、さかんに発泡した。他の鉱物(赤鉄鉱・マンガン鉱と色が似ている)は、発泡はチョロチョロであった。さて準備は万端である。 「稲郷鉱山」寄から徒歩40分 場所:稲郷沢入口から500m 場 所は、稲郷にあり露天掘で採掘されていた。と言われている。日本鉱産誌によると位置は、寄村稲郷にあり地質および鉱床は、御坂層中の凝灰角礫岩を母岩とする鉱床で品位はマンガン5.7%以

丹沢の鉱山跡を探る 12  丹沢だより437号 2007/1(玄倉銅山 検証)

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丹沢の鉱山跡を探る 12                                   図をクリックすると拡大します 4-4.「玄倉の幻の銅山跡」玄倉は、鉱山町(村)であったようだ  「丹沢だより431~435号」にかけて、丹沢鉱山(信玄時代に採掘された?)、玄倉鉱山、坂口鉱山?玄倉銅山?など色々探ってきた。また436号では、玄倉周辺の鉱山に関係していると思われる事例も羅列してきた。今号は、鉱山に係わると思われる玄倉の事例と、まとめとして、各事例の繋がりを地図に書き入れて見た。地図を見ながら過去の投稿記事を見ていただくと相互の関係が明らかになると思う。  添付図は、昭和7年発行の大日本帝国陸地測量部「中川」2万5千分の1図に鉱山関係の事例と、その位置関係および、それらを取り巻く経路を書き入れたものだ。現在の「中川」と比較して、桧洞丸周辺(特に経角沢源頭部)が大まかに作図されているのが判る。そのほかの地形も現在の地図とは違っているので、「事例の相互位置関係を知ることを目的として」のみ見てほしい。ちなみに中ノ沢休泊所とユーシン休泊所が記入されており、玄倉林道は、まだ出来ていない。玄倉川の立間大橋から上流には堰堤は、出来ておらず丹沢黒部の様相を呈している。  玄倉から中ノ沢休泊所を経由して欅平。山神峠を経由してユーシン休泊所。山ノ神から玄倉川へ降り、中ノ沢休泊所までの経路は、元々から記入されれている。玄倉から前尊仏様を経由して谷戸ノ影沢出合までの経路は、明治25年発行の2万分の1地図「塔嶽」を参考にして書き入れた。ちなみに「塔嶽」には、中ノ沢休泊所まで。山神峠を経て逆木までの経路は、すでに存在している。女郎小屋ノ頭から出合までの経路は、足柄之文化2号「信玄の金山をたずねて」の記事を参考に、現在のWebで調査した経路を踏まえ書き入れた。玄倉鉱山から丹沢鉱山までの経路は、現代登山全集8 富士丹沢三ッ峠の奥野氏の地図を参考に書き入れた。 注意 この添付図に書かれている場所は、登山地図では赤破線で示されている難路や地図に記載のない経路を辿って行きます。この添付図を参考にして行動した結果、想定できるリスク・想定できなかったリスクにより、あなたの生命に危険を及ぼす事象が発生する可能性があります。鉱山位置および経路は、相互関係を知るために書き入れてありますので

丹沢の鉱山跡を探る 11  丹沢だより436号 2006/12(玄倉の幻の銅山跡・小川谷源流部探索)

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丹沢の鉱山跡を探る 11              4-3.「玄倉の幻の銅山跡」玄倉は、元鉱山町(村)であったのか?  さて今回は、仮説として立てた「玄倉は、元鉱山町(村)であったのか?」について、いろいろな傍証を基に考えてみたい。前号、前々号では想定位置付近に坑道が、まったく偶然に、しかし「見つけてくれ!」と言うがごとく見つかってしまった。この号もすこし強引なこじつけもあるが、ご容赦願いたい。 玄倉周辺の鉱山に関係していると思われる傍証 赤棚  戦前の坂本光雄氏らの玄倉渓谷遡行記を読むと、現在の玄倉林道・境隧道の玄倉川沿いに、赤棚とノリコケ岩の地名が付いている場所がある。この赤棚、岩石が赤く染まっているので名付けられたそうだ。「丹沢だより426号」プロローグで述べたように「赤」が付く場所には鉱脈・鉱山があるという謂れ通り、この場所には酸化され赤褐色になった磁硫鉄鉱・黄鉄鉱がある。また地元の伝承によると(山口喜盛氏私信)かつて坑道があったそうだ。しかし前号の探索では、それらしき跡は見つけられなかった。さてこの赤棚の先には、女郎小屋沢出合がひかえている。また下流には芋ノ沢がある。 芋ノ沢  昭和初期の登山ガイドや森林基本図では玄倉林道・境隧道直下で玄倉川に出合う沢が芋ノ沢となっている。また女郎小屋沢の出合い直ぐの左股の沢にある堰堤にも、芋ノ沢の記名板が付いている。はたしてどちらが本当の芋ノ沢なのであろう?こんな場所で芋が取れるわけでもなく、なぜ芋ノ沢と名付けられていたのでろうか?若尾五雄氏によると「芋とは鉱脈を表す言葉でもあり、芋づる(鉉)と置き換えることもできる。また鋳物とも置き換えることができる。」とある。これから察すると赤棚の旧鉱もしくは、その下流にあった鉱山跡を示しているのだろうか?さらに芋ノ沢出合玄倉川左岸には、台地状の場所があり、境隧道上からの経路が降りてきている。(この経路は、さらに玄倉川を横切り芋ノ沢の頭を経由して、中ノ沢休泊所まで繋がっており、今でも辿れる立派な経路になっている・御料林経路)坑道を掘るためには、鏨や玄翁が必要である。それらは鋳物で作られていたので、この台地状の場所は、作業用工具の鋳物工場(鍜治場)があったのかもしれない。 女郎小屋沢出合  山中の女郎小屋と言うと昔から鉱山に関係していることが多い。この女郎

丹沢の鉱山跡を探る 10   丹沢だより435号 2006/11(玄倉銅山の探索)

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丹沢の鉱山跡を探る 10              4-2.「玄倉の幻の銅山跡」(玄倉は、元鉱山町であったのか?)  さて玄倉銅山だが、江戸時代の銅山の形態からすこし考えてみよう。江戸時代の産銅は、山元での粗精錬が求められていた。そして、ある程度の精錬された荒銅を、さらに別の場所に持ち込み精錬して銅を製造していた。粗精錬には、多量の木炭が必要であり、樹木が多いところ出なければ成り立たない。また炭焼きの技術も必要であった。焼成には、ばい煙も発生するので、山元での粗精錬が義務付けられていたのであろう。  採掘は山師が統括し、その下に金子(間歩の見立)・大工(抗夫に相当)・手子(鉱石の運び出し)・樋大工・樋引(水抜き)・山留(土止め)・寸歩(測量)・鍛治(工具係)等がおり、買石(選鉱・精錬の統括)の下には、板取・吹大工(溶融)・破女(砕石)・炭焼等がおり分業体制で作業をしていた。これらをまとめると相当数の人々が鉱山で働いていたと考えられる。銅の精錬方法は、細かく砕いた鉑(鉱石)を薪の上に引き、鉑と薪を交互に重ね30日間ほど焙焼し、焼鉑としこれを炉に移して木炭と珪石を加えて吹溶かす。カラミは軽いため、溶けた湯(溶融銅)の上に浮くので、それを除き荒銅としたそうである。  玄倉銅山の史実から考えると、採掘期間は短いが鋳銭にも使用できるくらいの産銅があったと見ると、玄倉付近は一過性ではあるが、多数の鉱山労働者を抱える鉱山町であったと見てよいだろう。玄倉と言えば真っ先に思い浮かべるのが、尊仏様の参拝路だが新編相模風土記稿の玄倉の項目には、尊仏様のことしか書かれていない。なぜだろう?  これは、過去に存在した鉱山が主では無く、従として玄倉の一角を占めていたのでないかと考えている。鉱山には、専門の職人が従事していた。また日雇いとしての玄倉村民の雇用もあったが重要な仕事では無かったのであろう。そして鉱山が衰退するにつれて一部の職人は帰農するなりして玄倉等に住み着いたが、ほとんどの専門の職人は、他の鉱山へ移動して行ったため、記録も無くなってしまった。  玄倉銅山の初出は1673年、その後70年後(1739~1744年)再発見、そして100年後に記稿の編纂。江戸時代の平均寿命を40歳と見積もり、この間4~5世代の交代があったとみると、ただの銅山の伝承は消えてしまうのも当然と思う。

丹沢の鉱山跡を探る 9  丹沢だより434号 2006/10(坂口鉱山・玄倉銅山)

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丹沢の鉱山跡を探る 9                                4-1.玄倉の幻の銅山跡(白井平に鉱山があった)  山北町地方史研究会が発行している雑誌、足柄之文化の「玄倉史話」には「玄倉の前尊仏様」や、今回の「鉱山跡を探る」の記事を書くにあたり何度もお世話になった。  今回は、「玄倉史話」に書かれている玄倉の銅山について探ってみよう。その引用元となった文献が、開成町教育委員会が刊行している開成町史研究『代官・蓑笠之助正高の研究-享保の改革との関連において』-高田稔氏著のなかの「3.蓑笠之助正高の業績(2)銅山の開発と鋳銭」の部分である。この研究の主要な内容は、将軍徳川吉宗による享保改革との関連に視点をおいて、代官蓑笠之助正高の治水、農政、勧農などの優れた業績を紹介したものである。以下 開成町史研究及び山北町史 史料偏からの玄倉銅山に関する引用まとめ  玄倉の銅山の初出は 延宝元年(1673年)7月23日小田原西郡之内、玄倉山より出候銅、以下略  出典 稲葉氏「永代日記」京都市 稲葉神社崇敬会文書  この永代日記は、譜代大名 稲葉正則(1623~1696)が小田原藩政や領民の動向・はたまた幕藩関係、江戸での出来事などを詳細に日記に記述しているものである。日記には玄倉山としか書かれていない。東沢にあった丹沢鉱山は、武田信玄時代(1540~1550)に発見された。とのことなので、それより100年も後のことになる。その後、玄倉銅山は一旦史料上からは消え去り次に出てきたのが  元文四年(1739年)12月相州酒匂川玄倉銅山 被仰請負人須藤平蔵の記述 出典 鋳銭重宝記  続いて大岡日記が、元文五年(1740年)~延享元年(1744年)にかけて蓑笠之助正高らによって産銅と鋳銭が行なわれていたことを示している。 銅山に関する部分の引用 *元文五年11月 銅段々堀出し候得とも水深クはか取り申さず、略 且水深          にて堀兼候二付、山下より堀貫水をはかせ候積り、只今最中堀申候由   坑道の出水で苦労している様子が示されている。 *寛保二年(1742年)5月 水抜拵方之義書付一通絵図一枚之あげる *寛保二年(1742年)7月 玄倉銅山之義、銅鉉江堀当て候   水抜き図面の作成、銅鉉(鉱脈

丹沢の鉱山跡を探る 8  丹沢だより433号 2006/9(探し求めていた丹沢鉱山発見)

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丹沢の鉱山跡を探る 8     やっと見つけた東沢鉱山跡 抗内から外へレールが敷設 3. 「丹沢だより」の記事から 3-3-3.まだ、あきらめ切れなかった「東沢の鉱山」 丹沢鉱山・信玄発見のかなやま金山か?  思えば、やまし山師の心境とは何ぞや。トレジャーハンターの心境とは何ぞや。入れ込んで身代を潰すまでにはいたらなかったが、この東沢に何回足を踏み入れたであろうか。そのお陰で東沢周辺の地理にもだいぶ明るくなった。これが最後・最後と言いながら、最後の望みを掛け「小満」のころ、またもや東沢に出かけた。  勝手知ったる東沢 今回は、枝沢に鉱山あれば知らないで通りすぎる可能性もあると考え、両岸の数ある枝沢をシラミ潰しに遡行した。が発見できず…またもや徒労感に苛まれ、いつもの湧水口で一休み。いったいどこにあったのだろう。  この周辺に入るときは、中ノ沢休泊所跡の山神様に、かならず道中安全と鉱山発見を祈願して入るのだが、もうそろそろ許されて東沢の鉱山跡を見せてくれても良いものをと嘆願してみても始まらない。初心に帰って『心眼』で、こんどは先に再発見した玄倉鉱山と同じ標高の場所を、東沢で探してみることにした。  「こっちだよ、こっちだよ、もう少し右、もっと上」と、心に響く声を頼りにだいぶ歩き回り、帰る時間も無くなりかけていたころ、人工的な平坦地を発見。ザレたいやな斜面を登り平坦地に到着。そこには割れた一升瓶があった。その先には、なんとレールがひしゃげている。レールの先には、ぽっかり抗道が口を開けていた。埋もれずに待っていてくれた。 思わず発見した時は、雄叫びを上げてしまった。 曲がりくねった坑道  なんと『武田信玄の金山』は、東沢源頭部にあった。どうやら色々な伝承を整理すると東沢中間部には、鉱石を選鉱する作業所等が設けられていたようだ。それを登山者が見て鉱山があると勘違いしたようである。実際の鉱山は、登山道から見えない位置にあったため、皆知らずに通り過ぎていたようだ。  いつも坑道に入る時は、緊張する。もしかしたら何十年間、誰も入坑したことのない坑道。魔物が潜んでいそうな漆黒の空間。妙にうきうきしている自分が恐い。  本坑道は、ちゃんとしたトンネル型で中央部分にレールがありトロッコが通れるようになっていた。20mくらい進むと天井部分が大規模に